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「やあどうも」


 目の前に現れた男に封蘭はいやも応も無く殴りかかった。

 ただ存在するだけで封蘭の神経を鮫肌で逆撫でする男は攻撃をひらりと避け顎を撫でた。子供のやんちゃに付き合う大人のような苦笑を滲ませ、「酷いなぁ」と暢気な声で抗議してくる。

 ああ、腹立つ。
 その余裕そうな顔が腹立つ。
 その父親のような穏やかな声が腹立つ。

 そして何より――――よりを戻しているのが一番腹が立つ!

 封蘭は両手の指をわきわきと動かし、男――――地仙、恒浪牙を睨めつけた。どうせ夢の中に現れるのならば淡華の方が良かった。身体が弱い淡華が疲労で満足に動けないであろうことは分かっているが、代理が泉沈でなかった辺りに恒浪牙の悪意を感じる。
 もう一度殴りかかろうかと拳を握れば、恒浪牙は両手を挙げて軽い声音で謝罪してくる。


「ごめんごめん。今日は泉沈も家内も自由に動けなくてね。私が幽谷について君から話を聞くと同時に、家内から伝言を預かってきたんだ」

「そこで家内を強調してくんじゃねえよ変態」

「使い古された言葉だけれど、男は皆変態的な要素を持ち合わせてるものだよ」

「使いたかったんだな。お前その言葉一度は言ってみたかったんだな。死ね」

「とまあ、封蘭をからかって遊ぶのもこの辺にしておこうかな」

「殴るんじゃなくて殺す。お前殺す」

「ここでは無理だよ。実体が無いもの」


 両手を広げて、首を傾けてみせる。
 全身の毛が逆立つのを感じながら封蘭は毒を体外に出すように大仰に吐息をこぼした。どっとした疲れを感じて肩を落とす。帰りたい、いや、目覚めたい。一刻も早く目覚めたい。そしてこの夢を忘れ去ってしまいたい。
 汚点だ。この悪夢は。
 自分の無意識の領域とも言える夢の中に、生理的に受け付けない人物が入ってきているのだから。

 鉛のような、鬱屈したモノが腹の底に蓄積されていく。マジで止めろよ、おい。


「何で泉沈が自由になれないんだよ。あいつ占いしてばっかだったじゃねえか」

「その結果が明確に動いたから、天帝に報告しに行ったんだよ。ほらほら、幽谷の状態を教えておくれ。でないと家内からの伝言が伝えられないし、君も、目覚めることが出来ないよ」

「お前死ねってマジ」

「残念。死んでも別の器があるからね。……妙幻にまた三体壊されたけれど」


 一瞬だけ遠い目をする。
 だが、封蘭にしてみればもっと壊されて欲しかった。封蘭が生きている間に全ての恒浪牙の器が壊されるくらいに。

 そんな封蘭の願望など、恒浪牙には筒抜けなのだろう。
 肩をすくめて困り切った風情で後頭部を掻いた。
 それから、周囲を――――桃の花咲き誇る園を見渡し、目を細めた。


「封蘭」


 促し、頷いてみせる。

 封蘭はそれに怪訝に思いながらも、雰囲気の変わった彼の促しに従って――――実際、彼とこれ以上同じ空気を吸いたくなかったということも勿論あった――――追求はせず幽谷に関して、封蘭が感じたことをある程度砕いた端的なものを短く報告する。
 恒浪牙は桃園の彼方から目を逸らさずに、しかし封蘭の報告を黙して聞いている。

 ここは封蘭の夢の中だ。
 封蘭が分からないことはこの中では起こり得ない。
 夢の世界での絶対的な管理人は封蘭なのだから。

 報告が終わって恒浪牙の前に回り込もうとすると、その前に恒浪牙が封蘭に向き直って笑みに切り替えてしまう。それまでの思考の一切を削ぎ落とした表情に封蘭は追求するものをすっかり見失ってしまった。


「では、砂嵐の言葉を伝えようか」

「……」

「『本当に辛くなったなら、いつでも帰っておいで』」


 封蘭は目を細めた。
 恒浪牙の前だからと、表情を引き締めて感情を表に出さぬようにしていた。恒浪牙の前でだけは、素直に、《封蘭らしい》反応を示したくなかった。弱みを見られるようで。あるがまま生きていることを喜ばれるのが剰(あま)りに癪で。

 恒浪牙は眦を下げ、笑みを少々情けなくする。
 しかし続けて、


「封蘭は、砂嵐にとって君は取るに足らない存在だと思っているかもしれないけれどね。本当は逆なんだよ」

「逆?」


 胡乱に問うと、少し五月蠅そうに眉根を寄せると、彼は鷹揚に首肯する。


「どうして、君には『淡華』と名乗ったと思う?」

「……さあ」

「実はね。《砂嵐》は彼女の、人間の世界で生きていく為に彼女の伯母からいただいた名前なんだ。彼女の本名が、淡華。君には、本名を教えて、本名で呼ばせ続けていたんだ。彼女が自ら望んでね」


 封蘭はゆうるりと瞬きをする。小さく息を吸った。


「本名を知る人物は少ない。私と泉沈くらいだろう。砂嵐にとって、君は本名で呼んで欲しい存在だった。……いや、本当はもっと別の呼び方をして欲しかったのだろうけれど、本名で妥協したのかな。結構、あの子も天然で思考がズレているから」

「何で、僕に本名で呼んで欲しいって思う訳? だって僕は四霊として作られた、それだけでしょう?」


 封蘭はそれでも構わなかった。役立たずの道具程度に思っていなくても、淡華はとても優しかった。たったそれだけで、十分だったのだ。

 それなのに、自分の予想を遙かに超えて、淡華がそれを望んでいただなんて。
 どうして信じられようか。

 恒浪牙は目を伏せた。


「あの頃はまだ、記憶が無くとも《淡華》でいられていたのかもしれないね。まだ、自分の作った人形を《子供》だと思うくらいに」


 瞠目。


「こど、も」

「夫として、礼を言わせておくれ。君がいてくれたから、淡華は完全には壊れなかった。記憶を取り戻し、息子のことを受け入れた。ようやっと、息子がまた息づいてくれるんだ」


 恒浪牙は、封蘭に拱手(きょうしゅ)する。


「僕を、淡華さんが、子供……?」

「ありがとう。淡華を助けてくれて」

「僕が淡華さんを助、けた――――」


 反応に困った。
 嬉しいのだろうか。
 苦しいのだろうか。
 どちらもなのだろうか。
 どちらでもないのだろうか。
 激情が胸中でせめぎ合い、ちくりちくりと痛む。

 自分は今、どんな感情なのだろうか。
 この感情を言い表す言葉を、彼女は知らない。

 封蘭にとって、淡華は救いだった。逃げ場所だった。
 ようやっと見つけられた居場所だった。

 一方的でも構わなかったのだ。自己満足で良かったのだ。
 利己的でいれば、ほんの少しでも自分は救われていた。
 実母に似ていた淡華に心の中で無機質に思われていたとしても、良かったのだ。
 側にいることを許されていただけで、十分嬉しかった。

 それが。

 こんなこと。

 あって良いのだろうか。


「では、私は帰るよ」


 その声は、遠かった。

 封蘭はその場に立ち尽くす。
 分からない激情に、身体を支配されながら。

 意味を失った夢から、弾き出されるまで。



‡‡‡




『またいつか逢おうねぇ。封蘭』


 見る必要の無くなった夢から戻るさなか、封蘭はのんびりとした少年の声を聞いた。

 それに反応を返す前に、右手をしっかりと握られ、耳元に温かな囁き。


『約束だよー』


 正体不明の激情が、また更に膨れ上がり――――爆ぜた。




‡‡‡




 目覚めた瞬間、少女は泣いた。
 静かに、泣いた。

 何かが悲しい訳ではない。
 何かが嬉しいのかは分からない。

 何も分からぬまま、ただただ泣いた。
 確かに根付く、温もりを胸中に感じて。
 声を押し殺し、嗚咽を漏らし、泣いた。

 そして、赤と青の目をした女性が部屋を訪れた瞬間、その身体に飛びつくのである。


 どうしてか分からない、今とても泣きたいんだ、と震えた声で言えば、女性は静かに、少女の身体を抱き締めた。



 感じたのは、喪失感と、それ以上の充足感。
 何を失ったのか、何を得たのか。
 ただただ泣きたい彼女には、分からなかった。



‡‡‡




 桃の花が散っていく。
 花弁が雪のように華奢な身体に降り積もっている。


「ああ、見つけた。ようやっと見つけたよ」


 さあ帰ろう。
 もう彼女は、《願い》を叶えたんだ。
 孤独の中、ずっとずっと恋い焦がれた《はらから》を見つけたんだ。手に入れたんだ。
 彼女はもう寂しくない。

 だから今度は、置いてけぼりにされてしまった君が《救われる》番。

 手を伸ばしたのは、傍観していた男。
 助けてと訴えても助けてくれなかった無情な男。
 それが、花弁に彩られた自分に手を差し伸べる。


「今度ハあたシを助けてクれるノネ」

「今度は助けさせてくれるかい?」


 あんなにも憎かった筈の男は小さく、謝罪する。

 全てが終わった差し伸べて欲しかったその手に、そっと重ねる。
 すると強く引かれて、そっと抱き締められた。
 黒く長い髪を撫でられて、頭部の《耳》がピクピクと震える。


「お母さんが、君を待っているよ。君も、救われなくてはね」


 ややこに言い聞かせるようにゆっくりと語りかけ、抱き上げる。

 『お母さん』を舌の上で転がして――――《かのじょ》は金と黒の双眸を歓喜に滲ませる。




―はらからさがし・完―


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