11
夏侯惇が行き着いたのは、あの中庭の池の畔だった。
幽谷はその池を見てあっと声を漏らす。
ここで、よく夏侯惇と夜の一時を過ごしていた。犀華でなく、幽谷でいられる時間を、彼は知っていたから。幽谷にとっても、全てが始まったあの滝程ではないけれど、印象の深い場所であった。
夏侯惇はどうしてこのような場所に来たのだろうか。彼にとっては、さほど重要な場所で何でもないだろうに。
階段に幽谷を座らせ、その隣に腰を下ろした夏侯惇を、幽谷は訝って見つめる。
その視線に気付いたのか夏侯惇がこちらに顔を向けてきたので慌てて視線を地面に落とした。
この闇と沈黙に覆われた世界、間近にいる為に意識せずとも衣擦れの音や呼吸音が聞こえてしまう。
一度気にしてしまうと、どうにも気になって耳を傾けてしまうようになってしまった。自分は若い生娘か、と心の中でツッコむ。そんな年でも、そんな身の上でもないのに。
それに、夏侯惇は幽谷に《彼女》の姿を重ねている。ただそれだけであって、幽谷に対して幽谷のような感情は抱いていない。
きっと、これからもずっと。
と、不意に夏侯惇が身動ぎする。
それに少し大仰な反応をしてしまった幽谷は素知らぬフリをして夏侯惇を見やった。
「何か」
「……」
夏侯惇はじっと幽谷を見つめる。何も言わない。隻眼は思考の海の深くへ沈み、幽谷を見ている自覚があるのかは分からなかった。思考に没頭しすぎて無意識に幽谷を見てしまったようにも思えるし、彼女を見て思案に没頭し始めたようにも思える。
幽谷はたじろぎ、少しばかり夏侯惇から距離を取る。
彼の目の前で手を振ってみせると、視線がそちらに移る。
ややあって、我に返ってくれた。
「……すまない」
「いえ。どうかされましたか」
「……」
無言である。
ここに連れてこられた理由も分からないし、こうして何があって見つめられていたのかも分からない。
ここに自分がいる意味があるのだろうかと、半ば本気で疑問に思い始めた。
夏侯惇を質(ただ)そうと口を開くと、声を発する前に手を取られた。掌に何かを乗せられる。
この闇では少々見えにくいが、腕輪のようだ。小さな傷が無数にある感触には馴染みがある。これがきっと鮮やかな緑色をしているだろうことも、何とはなしに分かった。
母から貰った、翡翠の腕輪だ。
夏侯惇は、約束通りに返してくれたのだった。
目を凝らして、真実苦楽を共にした腕輪を見下ろす。息が震えてしまうのを押し殺して、胸に抱き締めた。帰ってきた、母の腕輪が。
戻ってきたという実感が再び沸き上がる。今度は歓喜に昂揚していく身体が、小刻みに震え出した。こればかりは、抑えようとしても無理だった。
「幽谷」
「……すみません。すぐに収まります」
「いや、そのままで良い。まだ渡したい物がある」
そう言って再び手を取って乗せたのは、細長い物だ。針金のような物。片方に質素ながらに飾りがあるようで――――……。
簪(かんざし)、だ。
ひゅ、と息を呑む。
顔を上げれば夏侯惇は隻眼を細めて簪を見下ろしていた。
どくり、と心臓が大きく震えた。
何故、これを私に渡すんだ。
だって、これは。この、簪は――――。
「誰の物か、覚えているか」
「……ええ。恒浪牙の義妹としての砂嵐が、客の女性から貰い受けた物であると。しかし、記憶違いでなければ何処ぞの姫に奪われてしまったのでは」
「俺が、取り返した」
夏侯惇の声音は淡々としていた。
だが、視線だけは微々たる反応をも一瞬たりとも逃さぬと言わんばかりに幽谷に向けられている。
「封蘭に、砂嵐と、この兌州で見かけた女性の正体を聞いた」
幽谷は沈黙した。
‡‡‡
……予想しなかった訳ではなかった。
妙幻に支配されている間に恒浪牙が話していたかもしれないし、幽谷が戻る前に封蘭が話していたかもしれない。
だからそれを聞いたとて、幽谷大した驚きは無かった。
事実が分かったからと言って、夏侯惇と幽谷の《関係》が変わる筈もないのだから。
幽谷の夏侯惇に対する感情はあくまで《砂嵐》に引きずられているが故のもの。その認識を改めるつもりは毛頭無かった。
「そうですか。……それは、残念でしたね」
「いや……おかげで、だいぶ落ち着いた」
「落ち着いた?」
鸚鵡(おうむ)返しに問うと、夏侯惇は幽谷の手から翡翠の腕輪を取り上げ、右手にはめた。そしてその右手を持ち上げて――――。
「え」
手の甲に、口で触れた。
微かに湿ったその感触に幽谷はつかの間思考が停止した。
彼女が正常に戻らないうちに、
「最初から、悩む必要など無かったのだ。俺は」
「……な、ん」
低い独白にやっとのこと絞り出した声は堅く、ひきつっていた。
少しだけ乱暴に手を引き庇うように抱き締めながら夏侯惇から距離を取ろうとする。
急激に上昇した体温に、頭が混乱してしまう。
いや、拒めば良い。
砂嵐に引きずられているだけなのだ。
だから、拒んでしまえばそこで終われる。いや、その方が良い。
だが――――手の甲に口付けられると誰が予想出来ただろうか。
とにかく逃げようと離れる幽谷を引き留めるように、夏侯惇が腕を掴む。
剥がそうと手を添えるが強い姿勢を崩さない彼は幽谷を引き寄せて腕の中に閉じ込める。
「なっ」
「好きだ」
心臓が跳ね上がる。
押し返そうと胸に手を当てる。力を込めるが、格段に膂力(りょりょく)の低下した身体では思った以上に力が入らない。
口で諭そうと、拒もうとしても、声が上手く出せずに呻きばかりになってしまう。
やっとのこと離れてくれたかと思えば、頬に手を添えられて、至近距離で見つめられ――――……。
「――――安定したばっかっつったろうがああぁぁぁぁ!!」
「な……がっ!?」
……封蘭に、跳び蹴りを食らって吹き飛んだ。
ややあって、ぎりっと聞こえた歯軋りは、憤懣(ふんまん)やる方無しといった風情の封蘭からだ。酷く殺気立ち、形容するには剰りに複雑な顔をしていた。
「……封蘭」
「きさっ、二度も……!!」
「死ね!! 池で溺れて死ね!!」
夏侯惇と言い合いを始めた封蘭に、諸々をツッコむ前に。
幽谷はほっと胸を撫で下ろし、熱い頬を両手で隠すように覆った。
あの後彼は何をするつもりだったのか想像に難くはないが……恥ずかしくて考えたくはない。
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