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 関羽の機転で夏侯惇が、安定したばかりで歩行のままならぬ幽谷を背負い、泉沈のまじないを利用して封蘭が開けた特殊な扉をくぐると、その先は関羽が札を選んだ場所だった。
 静かな城内は他に人気が無く、灯りも消されてしまっている。この城の中で、起きている者は数えるくらいだろう。


「……取り敢えず、わたしは曹操のもとに行くわ。報せておかないと。幽谷は一旦……そうね、前に使ってた部屋で休んでちょうだい。明日は猫族の皆に報せましょう。幽谷も一緒に行った方が喜ぶわ」

「あの……すみません」


 幽谷が完成して地上に落とされたのは、数日前のことだった。
 されどこの地上の空気に馴染まず、安定するまでその場で放置されていた。放置されていたと言っても、何かしらの手段で恒浪牙達が状態を観察していたようだ。その頃のことは、幽谷自身はっきりとは覚えていない。ただただ、刷り込まれたように待つことを続けていただけ。

 自分には非が無いと分かっていながらも、関羽達をこんな夜遅く、危険や山道に誘ってしまったと思うとどうしても謝罪が口から出てしまった。

 それに、封蘭は肩をすくめて片眉を上げた。


「仕方ないって。こっちに落ちて安定したのがあの時間帯だったんだもん。むしろ、幽谷のお姉さんの場合、もっと時間がかかる筈だったんだからさー。あのクソ地仙も想定外の速さだったから、近々実際に状態を確かめた方が良いかもって言ってたらしいし」

「そうなの? じゃあ、恒浪牙さんにきちんとお礼が言えるわね。それに、あの後どうなったのかも訊けるし」

「訊かなくて良いよ。惚気られるだけだから」


 心底うざったそうに彼女は言う。封蘭にしてみれば、もう二度と会いたくない相手なのだった。
 されど、幽谷自身もまだ彼らに礼を言えていないし、犀煉、そして犀華のことも気になっている。彼なら少しくらいは知っているだろうから、せめて二人の魂が輪廻に戻れたのかは確かめておきたかった。

 苦虫を、それこそ幾百も噛み潰してしまったような顔をする封蘭を、趙雲が苦笑混じりに窘(たしな)めた。が、封蘭はつんとそっぽを向いて聞いている様子は全く無い。


「……とにかく、夏侯惇。幽谷を部屋に届けてくれないかしら。趙雲には封蘭を任せたいし」

「え、やだ。僕も行く」

「駄目よ。ちゃんと寝ておかないと。それに、夏侯惇に噛みついて幽谷に迷惑かけちゃうでしょう?」


 関羽が諭すと、封蘭はぐにゃりと顔を歪めた。敵を見るような燃える憎悪を秘めた色違いの眼差しが夏侯惇を射抜いた。夏侯惇は、構うのも面倒になってきたのか彼女を見ようともしない。


「この馬の骨と二人きりにされる方が駄目でしょ? ね、趙雲のお兄さん」

「え……」

「こら! 趙雲を利用しようとしないの!」

「ちっ」


 封蘭は夏侯惇を睨みながら舌を打つ。幽谷が宥めるように名を呼ぶが、彼女は夏侯惇の足を踏みつけて駆け出した。これはもう拗ねた子供の様だ。
 実年齢は自分達よりもうんと上なのに、本当に幼い。
 関羽は苦笑を浮かべ、趙雲に頷きかけた。

 彼は困ったような笑みをこぼし、幽谷達に一言かけてから足早に封蘭を追いかけていった。


「本当に……封蘭は幽谷によく懐いているわね」

「そうですね。恒浪牙にも、その理由を言われような気がするのですが……記憶を取り戻したまでのことは曖昧なので」

「でも、良いことだわ」

「ええ。私も、そう思います」


 幽谷は目元を和ませて、すでに夜闇に隠されて見えなくなってしまった封蘭の姿を、まるで見えているかのように見やった。
 その様を肩越しに見つめていた夏侯惇はふと彼女の注意を戻すように軽く揺すった。


「早く休め。……関羽、お前もだ」


 幽谷は夏侯惇を見やって軽く目を瞠った。


「ええ、分かっているわ。じゃあ、わたしはこれで。夏侯惇、幽谷のこと、お願いね」

「ああ」


 関羽は幽谷に「また明日」と声をかけると小走りに曹操の私室の方へと駆けていく。

 夏侯惇は彼女に背を向けて歩き出す。幽谷の身体に負担をかけぬよう、歩調は、ゆっくりと。



‡‡‡




 幽谷は、彼に背負われていることに気まずさを感じない訳ではなかった。
 だが歩けない以上これは仕方がないことだと自身に言い聞かせる。先刻から少しばかり上昇している体温に、彼が気付かなければ良いのだけれど……。
 自分が危惧していた程平静でいられるのが、せめてもの救いだった。

 幽谷は細く吐息を漏らして目を伏せた。
 こうして背負われて感じられる体温は本物だ。関羽に抱きつかれた時と似て非なるもの。
 まさか、また戻ってくることが出来るとは、夢にも思わなかった。

 約束は、絶対に果たされないと、分かっていたつもりなのに。
 幽谷は理の外にいた存在だった。封蘭や犀煉達よりも遠い場所、有り得ない枠組みを自ら作り出し、傲慢にこの世で生きた。
 だからこそ、消えてしまうことが当然の摂理であった。
――――だのに、今。
 自分は《幽谷》として再び生きることを許された。無論、天帝ではないが、それでも恒浪牙達に生きろと送り出されたのだ。

 生きたいと願う。
 関羽達と共に在りたいと思う。
 けれどそれによって、恒浪牙達は今天仙達に目の敵にされているだろう。泉沈や妙幻――――曖昧な記憶だが、恒浪牙が側にいても変わらず砂嵐の面倒を見ているらしい――――がいるから大変なことにはならないだろうけれど、彼らが苦しい立場に立たされてしまったのは事実。
 もし本当に自分の様子を確かめに来た時あらば、しっかりと謝意を伝えよう。そうすることしか、幽谷には出来ない。

 と、暫く無言で廊下を歩いていた夏侯惇が、唐突に声を発した。幽谷の思案を断ち切るように、その声は大きく、人気の無い廊下によく響いた。


「何ですか」

「少し、寄り道をしたい」

「え? ……ええ。構いませんが、何処に?」

「行けば分かる」


 夏侯惇は短く答え、ほんの少しだけ歩みを速めた。



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