――――ここで、少しだけ時を遡る。
 封蘭に怒鳴るようにその事実を告げられた夏侯惇は、一人自室に籠もって頭を抱えていた。

 顔から火が噴く程の羞恥と、胸を抉るような強い悔恨がぐなりぐなりと絡み合って胸中で暴れ回る。
 まるで夏侯惇を嘲笑うかのようだ。似ている、似ている――――そう思っていたくせに、重ねていたくせに、どうしてそんなことに気付けなかったのかと、胸の中で真っ黒な蛇がにたりと嗤っている。
 幽谷が消えて無くなる、妙幻に支配される前に気付けていたら、何か変わっていたかもしれない。このような的外れな疑問に苦しまずとも済んだのだ。

 本当に自分が愚かに思えた。

 両手で顔を覆って、長々と吐息を漏らす。自室に戻って、一体何度繰り返したか分からない溜息を漏らし、夏侯惇は寝台に横たわった。
 このまま寝てしまいたかった。寝て幾分か気分を落ち着かせたかった。
 けれども彼の生真面目な性分が、仕事を放棄するなと頭の中でがなる。

 ……寝るではなく、仕事で紛らわせるか。
 そう思い立って立ち上がった彼は己の顔を強めに叩き、雑念を振り払うように大股に空気を裂きながら部屋を出た。

 と、部屋の側に誰かが立っているのに気が付く。
 女性だ。あの、砂嵐――――だった幽谷から簪(かんざし)を奪ったという。
 本家からの将来の伴侶候補として送りつけられた深窓の姫君は、一旦は帰ったのだが、落ち着いた頃にまたこの城に居座っている。全く靡かない態度に焦れているのか、最近やたらと夏侯惇にまとわりつくようにもなっていたので正直五月蠅く思っていた。今はそれも特に感じる。

 姫君は念入りに化粧の施されたかんばせに淑やかで媚びた笑みを浮かべると、そっと夏侯惇の腕に触れ、寄り添った。
 少し前までの夏侯惇なら、恥ずかしがって振り払っていただろう。
 されど、これが幽谷であったならばと心の内で願い、この彼女ではない馴れ馴れしい腕に嫌悪を抱く。
 やんわりと剥がして距離を取れば、彼女は一瞬だけ瞳を鋭くさせる。すぐに笑みを浮かべて消し去っても、意味の無いことだ。


「すまないが、話をしている暇が無い」


 本当はさほど慌てずとも良い。
 姫と共にいたくないが為に、夏侯惇はさらりと嘘を付いた。

 姫は笑みを崩さぬまま「ご苦労様です。失礼致しました」と粛々と頭を下げ、足早にその場を辞した。肩が少しばかり上がっていた。

 それを最後まで見送らずして夏侯惇は歩き出す。姫とは逆の方向に。
 今日中にやるべきものを脳裏に浮かべ、整理する。それだけで、今までの思考は隅へと追いやられた。

 が、それも女官と擦れ違うまでのこと。
 仕事途中の女官達の雑談を、思考の隙間に聞いた夏侯惇はふと足を止めた。
 彼女らの話題は、恋人に簪を贈られたという、他愛ない自慢話だった。
 そう言えば姫が幽谷から奪った簪を、姫はまだ所持しているのだろうか。我が物顔で、己の美しさを誇示する為だけに身に付けているのだろうか。

 一度気になると、それは急激に膨れ上がっていく。
 脳裏に、幽谷の姿が浮かぶ。飾り気の無い、暗殺に手を赤く染め続けた四霊。
 そんな彼女の装飾品と、強いて言うのなら、特製の劇毒を潜ませた金の腕輪と、実の母親から託されたという翡翠の腕輪くらいだろう。
 その翡翠の腕輪は夏侯惇のもとにある。また再びまみえた時に、返すと一方的に約束を交わした翡翠の腕輪は、彼の懐のうちで主人のもとに帰るその時を待ち望んでいることだろう。

 夏侯惇は欄干に歩み寄って天を仰いだ。
 砂嵐は幽谷だ。
 ならば幽谷とて、薬売りの客に貰った簪のことを、多少なりとも気にかけていた筈だ。もっとも、妙幻に支配されてから消えるまで、そのことを頭の隅に追いやっていただろうが。

 幽谷から変じた銀の簪を挿した砂嵐の姿が、ゆらりとまた幽谷に戻る。
 あの簪は幽谷に似合うだろうかと考えたのは一瞬だ。
 夏侯惇は今度は仕事を意識の奥へと追いやって身を翻した。



‡‡‡




 目の前にいる女性が間違い無く幽谷であることは、双眸を確かめるまでもなく分かった。
 容貌こそがらりと変わっているが、夏侯惇には何となく、その身にまとう雰囲気で直感した。
 歓喜に泣く関羽を抱き締めて、彼女は記憶を取り戻したのか、関羽を慈しむように表情が軟らかい。

 夏侯惇は封蘭が動く前に歩き出した。
 逸る気持ちは抑えていたが、徐々に蓋を押し返すように膨れ上がり、ゆっくりだった歩調を速めた。終いには駆け足になって二人の傍らに片膝を付く。
 幽谷が関羽を放してこちらに向き直ったのに、両手を伸ばしかけ――――。


「オイコラ汚ぇ手でお姉さんに触ってんじゃねえよ馬鹿」


 側頭部を封蘭に蹴りつけられた。
 結構な勢いだった為に夏侯惇はそのまま地面に倒れ込んでしまう。

 その一瞬の出来事に幽谷は瞠目して夏侯惇と封蘭を交互に見た。


「あ、あの……封蘭?」

「お久し振りー。幽谷のお姉さん!」


 封蘭が幽谷に抱きつく。

 その後ろで趙雲が苦笑をしつつ、同情の眼差しを夏侯惇に向けていた。


「……っ、貴様ぁぁ……!!」

「え? 何? ごめーん僕まだ子供だから難しい言葉分かんなーい」


 はっと鼻で笑う封蘭は、勝ち誇ったような笑顔で小馬鹿にしたように夏侯惇を見下した。

 幽谷はその様に、困惑したように瞬きを繰り返すしか無い。



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