どのくらい待ったのだろうか。
 どのくらいこの轟音を聞いていたのだろう。
 長生きもするが、それ程経っていないようにも思えてしまう。
 何度も月と太陽が入れ替わる様を見ているから、それなりの時間は経過しているだろう。

 それでも、この場所に、この音に。
 一向に飽きが来ない。
 この場にいると何かに浸れそうな気がする。何に浸れるのか分からないから、結局どうにもならないのだけれど。

 ここは清廉だ。
 自分の存在があの、延々と続く透明な竜に溶け込んでいくのではないかと錯覚してしまう。

 神聖な気を帯びた竜を眺めていると、脳の片隅で何かが焦がれているような感覚を得る。それはささやかなもので、手繰ることも出来ない。掌握しようとすれば指の隙間からこぼれてしまう砂のようにさらりと逃げてしまう。まるで、時期を計っているみたいに潜んでいる。
 掴めなくても別に良かった。
 それに心の手を伸ばすのはただの暇潰し。

 待てばいつか必ずその焦がれは明確な炎を持って脳の中で膨れ上がるだろう。そしてその後に残るのは、燃え殻ではない。熱を残した何かが、あの箱に入ってくる。
 確信している。
 きっともうすぐ、来てくれるのだと。

 誰に教えられた訳でもない。
 夢に見た訳でもない。
 けれど、それがただの幻想ではないと、自我は識(し)っていた。

 だから、待つ。
 待って待って待ち続ける。
 それが、役目だから――――……。



‡‡‡




「幽谷!!」


 誰かが声を張り上げた。
 それは鼓膜から脳へ浸透し、箱を刺激する。
 ふわり、と何かが箱に舞い降りてきたような、そんな感覚に身体が動く。顔を上げ、横に回す。胴体も自然と捻れた。

 視界が捉えたのは、娘だ。
 頭に三角形の飾りを持った、泣きそうな顔をした娘。

 ふわり。何かがまた箱に舞い降りた。

 焦がれが少しだけ強さを増したように思う。
 待っていたヒトは、このヒトだったのだろうか。自我が確かめるように存在を吟味する。
 三角形は獣の耳だ。見た目から察するに、恐らくは偽物ではない。
――――猫族、だ。
 ああいった風貌の人間は、猫族という、一族ではなかったか。
 彼らはこの近くに住んでいた。

 ふわり、ふわり。何かがまた箱に舞い降りた。


「幽谷!」


 抱き締められた。

 幽谷とは、自分の名前だ。
 誰かが与えてくれた名前。
 そう、誰かが。

 私は、《何》だっただろうか。


『幽谷、お前は人ではないのだから、決して心を持とうとするな。自分は生まれながらの世の芥(ごみ)なのだと思い込め。そして汚いなりに、醜く生きれば良い』



 男の低く落ち着いた声が聞こえる。
 それは一拍置いて、また別の言葉を紡ぎ出す。


『人間らしいのは、お前には似合わん。俺達は忌むべき芥なのだ』


 世の芥。
 忌むべき芥。
 その存在は――――四凶。


『僕は四凶じゃないよー。四霊だよー』


 今度はまた別の声だ。
 四霊……そう、それが本来の名称。
 四霊は女仙に作られた本物の四霊の器。
 天帝の命に従って、世に徒なす女仙を殺す為の道具。

 ふわり。

 ふわり。

 ふわり。


 箱が、満たされていく。


「幽谷? どうしたの?」


 箱に集まっていくものを追いかけていた彼女は、虚ろな目を娘へと向ける。抱きついて泣く娘の顔が間近に見えて違和感を覚えた。
 はて、この娘はこんな髪の長さだっただろうか。
 昔見た時はもっと長かったような。

 ……《昔》?

 昔って、いつ?

 ふわり。

 ふわり。

――――ぶわり。


 箱が、爆発した。



‡‡‡




『わたし、これからはあなたのこと、もっと知ろうと思う。そうすれば、あなたのことを怖がるなんて、無いと思うの』

『いえ、だから私を怖がるのは普通の――――』

『幽谷だけが辛い思いをしなくて良いのわたしたちもこれから頑張るから!』

『不要な意思表明の前に落ち着いて人の話を聞いて下さい』

『あ、それと今更だけど、二人きりの時は敬語は無しだったでしょう?』

『……』




‡‡‡




『……あまり、一人で洛陽を歩くのは止めた方が良いわ。この間のように人間に攻撃されでもしたら……』

『わたしなら大丈夫よ。幽谷だって、無理してわたしに付き合うことなんてないのよ? 村にいた時みたいに、好きに生活して良いんだから。というか、幽谷はずっと働きっぱなしなんだからこんな時くらいは休んでちょうだい』

『だから、あなたを守っているの。あなたが心配なのは、部下でなく友人だからよ。休みなら、不要だわ』




‡‡‡




『女! 何故このことを言わなかった!』

『いっ、言える筈がないでしょう! あなたは男なんだから――――って、こっち見ないで!』

『あの、関羽様』

『幽谷は早く着て!』

『……御意』




‡‡‡




『お前でも、関羽を怒ることがあるのだな』

『そうですね。もっとも、このことが無ければもう一生無かったように思いますが』

『うぅ……』

『あはは! 関羽のお姉さん余所の屋敷で怒られてるー!』

『泉沈は黙ってなさい』

『えー、だって関羽のお姉さんの顔面白いもん』

『え、顔!?』

『ほら変な顔ー!』




‡‡‡




『幽谷……どうしたの?』

『あなたを、乱世に戻す訳にも、曹操に接触させる訳にもいきません。援軍ならば私一人で参ります』

『駄目よ! 危ないわ』

『危ないからこそ、情で乱世に戻るようなことはなさらないで下さい。あなたの感情一つで、猫族の方々をまた命の危険に晒すつもりですか? 私一人行けば、曹操軍を潰すのも容易いことです』



‡‡‡




『お退き下さい、関羽様。あれは、私が』

『わたしも、戦うわ。幽谷一人に任せちゃ駄目だもの! また、震え出したらどうするの?』

『あなたがいるべきは、ここではないでしょう?』



‡‡‡




『やはり、そうやって逃げるのですね。あなたが選んだのは関羽さんではなく、自分を守る選択でしかない』

『それは、いけないことでしょうか』

『いいえ。《人間らしくて》良いと思いますよ。逃げという行為が悪いとは、私は思いません。かく言う私も大昔逃げてこんな風になってしまったのだからね』



‡‡‡




『放して曹操!! 幽谷が、幽谷がぁ!!』



‡‡‡




『ねえ、幽谷。四凶でも心を持って良い――――いいえ、四凶なんて関係ない。あなたは人だわ。心を持つのは当たり前のことよ』

『……違う』

『違わない。あなたはとても優しいわ。だから劉備も懐いたのよ、きっと』

『違う! 私は化け物。人を食らう龍の子で……!』

『……じゃあ、まずは自分が人だって思うようになりましょう』

『そんなの……』

『大丈夫よ、わたしも手伝うわ。だから、もう死のうとしないで』



‡‡‡




『……じゃあ、まずは自分が人だって思うようになりましょう』


 少女のあどけないながらにしっかりと芯の通った声が脳裏に反響する。

――――燃え上がる。
 頭の中が燃え上がる。
 焦がれるような、痺れるような感覚が脳から全身に広がっていく。

 それが収まる前に、彼女の手は勝手に動いた。
 小刻みに震える背中を撫でると、びくんと大きく震える。自分に巻き付く腕に力がこもった。
 あの声は、彼女のものだ。
 この、温もり。

 あるじ。

 主。


「……さま」

「え?」


 主。

 ふわり。ふわり。

 燃え尽きる。
 箱が燃え尽きた。

 後に、残ったのは――――。


「……関羽様」


 大量の、


「幽谷……?」


 とても、


「幽谷なのよね」


 とても、


「……はい」


 大切な、


「……ただいま、戻りました」


 もの。
 モノ。


 《幽谷》を形成していた、全てだった。



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