こんなところに、こんな自然の壁なんてあっただろうか。
 ……いいや、無い。

 関羽は目の前を塞ぐ壁に眉根を寄せた。
 しっかりと強固に絡み合った蔦が、これ以上先に進ませぬとばかりに堅牢な佇まいを見せつける。
 思わぬ自然の妨害に、関羽は封蘭を振り返った。

 だが、封蘭は関羽の動向を眺めるのみ。口は引き結ばれたまま何も言わない。

 ならばこれも泉沈が関羽を試しているのだろう。これを越えなければ、辿り着かないのだろう。
 不安だった気持ちが、そう思うとふっと軽くなったような気がした。
 こんな障害があるのならば、いるかもしれないという可能性が高まったと、前向きに思えるのだ。

 関羽は表情を引き締めて壁を見上げた。歩み寄って蔦に触れて揺らしてみると、意外と薄い。だが蔦が何十――――いや、ややもすれば何百やもしれぬ――――も複雑に絡まって形成された壁は厚さは無くともそれなりに強い。
 偃月刀を持ってくるべきだったと、心の中でほんの少しだけ後悔した。刃物が通用するかどうか、分からないけれど。
 ……質問、しても良いのかしら。


「封蘭、これは越えなければいけないということなのかしら? それとも別の意図があるのかしら」

「さあ、どうだろうね。全ては関羽のお姉さん次第だよ」


 淡々と答えた封蘭に、関羽は思案する。
 わたし次第……なら、無理をして越えなくても良いのかしら。
 だとすれば、また別に通り道が――――。

 と、夏侯惇が隣に立つ。
 隻眼を細めて、関羽の肩を押した。


「離れていろ」

「夏侯惇? ――――あっ」


 夏侯惇が手をやった腰には、彼の得物がある。そう言えば、彼はこの中で唯一武器を携えていたのだと今更思い出した。
 ならば彼が剣で斬り払えば――――。

 得物を抜いた夏侯惇はしかし、遠い目をして舌を打った。得物を鞘に戻してしまう。


「え? どうしたの夏侯惇」

「斬ったとしても先には進めん。すぐ先に罠がある」

「罠っ?」


 ぎょっとして蔦の壁の向こう側の地面を見る。
 されど関羽の目には人に踏みならされた地面があるようにしか見えない。

 夏侯惇は隻眼だ。その上封蘭の灯りがあるにしても蔦が邪魔をしてよくは見えない筈。
 それなのに、夏侯惇は関羽に見えない物を見、回避した。
 ……正直、ほっとした。趙雲と夏侯惇に着いて来てもらったことが、この時これまで以上に心強く感じられた。

 封蘭は夏侯惇の行動を咎めたりはしない。だが、言わないだけでこれは違反になってしまうのだろうか。


「封蘭。夏侯惇達にも手伝ってもらって良いの?」

「関羽のお姉さんが、彼らが同行することを選んだんなら、彼らは君の手足の一部だよ」


 つまり、二人に手伝ってもらっても問題は無いということ。
 関羽は表情を弛めて封蘭に礼を言った。二人に手伝ってもらいながらなら、やりやすくなる。
 関羽は夏侯惇と趙雲に小さく頭を下げた。

 二人はそれぞれの態度で、拒絶はしなかった。



‡‡‡




 泉沈が仕掛けた細工に遭遇する度、二人の手を借りてそれを排除、或いは回避する度、不安が薄れていく。確信が、大きさを増していく。
 幽谷はあの滝にいる。

 遠回りを強いられても、歩きにくい危険な場所を歩かされても、関羽の心は軽く、期待に踊っていた。


 そうして、立ち止まること無く進んだ彼女の耳に、あの音が聞こえてくる。


 どどど。

 どどど。

 どどど。


 まだ遠いがそれは確かに、滝の轟音だった。
 関羽はそこで初めて足を止め耳をぴんと立たせた。

 この音は、あの時と全く同じだ。
 あの時、彼女は滝壺の側で胸を太い木の枝で刺して、岩壁に寄りかかっていた。
 その情景が脳裏を過ぎったのに、関羽は弾かれたように駆け出した。

 後ろで趙雲が呼んでいたが、構わなかった。
 早く、早く、早く。
 確かめたかった。
 この掴めない確信を、現実に触れて昇華させたかった。

 滝の音がどんどん近付いてくる。

 ……いや、いや。
 近付いているのは関羽の方だ。

 大事なものがそこにいる――――かもしれない。
 大事なものが戻ってくる――――かもしれない。

 『かもしれない』を払拭したくて、関羽は草の葉にしなやかな足が切られるのも厭わずに走り抜けた。


 どどど。

 どどど。

 どどど。


 これは滝の音――――否、早鐘を打つ心臓の鼓動だろうか。
 どちらがどちらなのか、分からない。全く違う音の筈なのに、耳が上手く機能していないのか同じように聞こえてしまう。
 けれども内側の音と混ざり合うくらいに、滝の音が近付いている。そう思えばどうでも良くなった。

 ただただ走る。

 ただただ目指す。



 そうして――――辿り着く。



「――――」


 関羽は息を呑んで足を止めた。

 霞をまとう神聖な竜がそこにいるかのような神々しい滝。

 ……その脇に。
 艶やかで緩やかに波打った黒髪を地面に広げ、真っ白で高貴な煌めきを放つ絹の衣服に肢体を隠した女性が、放心したように座り込んでいた。


 その虚ろな双眸は懐かしい……赤と、青だ。



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