封蘭が提示した札を取ると、先程よりも弱いが再び耳鳴りが走った。

 耳鳴りに気を取られて瞬き一つしたうちに、風景ががらりと変わってしまった。驚きはしたものの、泉沈の呪いの一つだからとの封蘭の説明で納得を得た。
 関羽は深呼吸を一つして緑と茶色ばかりの周囲をぐるりと見渡した。深呼吸で吸い上げた空気は懐かしい緑の匂いを関羽にもたらした。
 森の香りなど、何処も同じだと思っていたけれど、そうではなかった。違いがはっきりと分かる。ここは、猫族の元々の村があった場所に広がっていた森だ。
 猫族の村であった場所どころか数歩先までも見えないのは濃密に世界の全てにまとわりつく冷たい夜闇故か。

 関羽は天に浮かぶ満月を見上げて目を伏せた。満月だというのに、この森は何かに包まれたかのようにその恩恵を受けず、闇に支配されている。奇異な光景だ。空はあんなにも明るいのに、ここには光の無い純粋な闇が満ちている。

 あの時も、こんな満月だった。
 けれど今みたいに森は暗くはなかった。月に照らされ、周りの様子はよく見えた。

 満月を遮る見えない何かが、泉沈が関羽を試す為に引いた暗幕のように思えた。
 なら、それを甘んじて自分は幽谷を見つけよう。
 あの時みたいに声はない。導く声は無い。
 けれど、場所は分かっている。
 錆のような不安が張り付いているけれど、胸の内には確信がある。

 彼女は、あの、人になろうと約した滝壺にいる。


「どうする?」


 それは誰の問いだったか。
 否、そんなことはどうでも良い。この状況に置いては些末な疑問だ。
 関羽は少しばかり顎を引いて両手に拳を握り締めた。


「……行きましょう。わたしから離れないで、足下に気を付けて」


 肩越しに振り返ると、夏侯惇と趙雲が暗闇の中で大きく頷いたのが分かった。

 と、関羽の意思を確認した封蘭が、片手に小さな光を灯す。優しい光を放つ球体が掌の上でくるくると回る。
 小さな球体の光は、しかし周囲をしっかりと照らし出した。見えなかった数歩先の物の輪郭が浮かび上がった。

 関羽が謝辞を口にすると、封蘭は促すように顎をしゃくった。


「僕は、ここではただ君の行動を見守ることしか出来ないよ」


 それも泉沈からの指示だ。
 四霊として見届ける役割を言い渡されたのだと彼女は静かに言う。
 封蘭に頼ることはすなわち、放棄。
 泉沈の試験を棄権するということ。
 関羽は緩慢に頷いて、心の中で封蘭の言葉を反芻(はんすう)した。

 封蘭が質問なら今のうちに、と三人をぐるりと見渡せば、夏侯惇が渋面で封蘭を呼んだ。


「しかし、万が一ここにいなければ、幽谷はどうなる?」

「うわぁお、弱気だね」

「……そういう訳ではない」


 封蘭は肩をすくめて見せた。


「どうだか。……ま、見つけられなかった場合は幽谷のお姉さんは幽谷として戻ることが出来ないってだけで、別の記憶喪失の人間として生きていくことになる。その場合、四凶扱いされながら生きていくことになるだろうね」


 「でも」と人差し指を立てて一旦言葉を区切る。


「もう引き返せないよ。関羽のお姉さんが選択した以上、それ以外の札はもう力を失ってる。泉沈は、そういう術をかけたんだ。一度きりだってのは、幽谷の自我と記憶が本当に特別だからなんだ。失敗した後にもう一度機会を与えることは天帝が許さない。君達にとっては幽谷のお姉さんは《個人》なんだろうけど、仙人達にしてみれば尊い天帝の命を受けた四霊達の妨害をした許されざる意識なんだからね。それに、よりにもよって幽谷のお姉さんが妨害したのはあの妙幻だ。戻ってきた後誰があいつに八つ当たりで殺されるかも分からない。実際何人か、無理矢理連れてこられた地上の尸解仙と偶然会った天仙が殺されたって聞くし」


 僕を封蘭として作り直すのだって、それなりの顰蹙(ひんしゅく)を買ってたらしいんだから、幽谷のお姉さんともなれば妨害もされるだろうさ。
 幽谷は仙人達にとっては非常に鬱陶しい存在になっている。三人の脳に刷り込むように、封蘭は繰り返した。

 関羽の決めた選択は、重い。
 けれども関羽はこれが間違いだとは思っていなかった。
 理性ではない。心の奥底、自分のもっともっと深い部分で、ここに相違ないと声を高らかに断じている。
 関羽は、それを信じている。


「行きましょう」


 関羽が歩き出すと、封蘭はそれきり口を閉ざし、一言も発しなくなった。
 それが試験開始の証のように思え、関羽は知らず、背筋が伸びた。

 関羽を先頭に、封蘭、そして趙雲と夏侯惇が続く。一応、試されているのは関羽のみだ。趙雲も夏侯惇も話しても問題は無いだろうが、彼らも無言で周囲を見渡しながら幽谷の姿を探していた。

 森の中は酷く静かだ。
 生き物の鳴き声どころかその気配も無い。まるで幽谷を探すその為だけにこの森から消えているかのようだ。
 木々すらも、生命を感じさせない。ただの物としてそこに置いてある。
 さく、さく、と四人の足音だけが、生き物の気配を醸す。それだけが救いだった。

 無音の暗い闇は徐々に徐々に関羽に不安をもたらした。
 この道で正解だろうか。よもや、逆方向に歩いているのではないだろうか。
 滝の音すら聞こえないなんて……本当は違う場所を歩いているのかもしれない。そんな錯覚に襲われた。

 それを必死に否定して、関羽は記憶にもある道を歩いていく。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 言い聞かせるように、何度も何度も胸中で繰り返した。
 今更後には引き返せない。ならば割り切って進んでしまえば良い。
 簡単なことなのに、段々とそれが難しく感じられるようになった。

 そして――――足を止めてしまいそうになったその時だ。


「……あ」


目の前に、蔦が絡み合った壁が現れた。



.

- 285 -


[*前] | [次#]

ページ:285/294

しおり