目が覚めて、最初に浮かんだ素朴な疑問は、自分の存在だった。


「……私は、誰だろう」


 分からない。
 何もかもが分からない。
 どうして自分はここにいるのだろう。
 そもそもここは何処なのだろう。
 ……否、今まで自分はどんな名前で、今まで何をしていたのだろう。
 探るべき記憶もこの頭の中には存在していない。
 《自我》はある。けれど、頭の中は空だった。頭の中に置かれた《自我》という箱の中には何も詰まっていない。些細な情報すら、無かった。

 分からないことに、何故か不安は覚えなかった。
 ただ、今自分のこの状態は当然のものなのだと、奇妙な納得が箱の横にあった。
 そしてこの箱は近いうちに一杯になるだろうという確信も、その納得の側に寄り添っている。

 自分は待てば良い。
 ここで、何かが来るのをじっと待っていれば良い。

 待てばきっと――――来てくれる筈だから。
 そうすれば、この箱は埋まるのだ。

 地下から湧き出す清廉な水、或いは吹き出す澱んだ泥水のように。


 だから、ここで、待てば良い。
 何処なのか分からない、けれども心安らぐこの場所で。



‡‡‡




「え? 何のことー?」


 封蘭はにっこりと、それはもう気持ちの良い、風の通る丘に咲く花のような、無邪気で爽やかな笑みを浮かべた。

 関羽はそれに、深々と嘆息を漏らした。微かだが、頭痛がする。

 彼女の隣には拳を握り締めた夏侯惇、苦笑を滲ませている趙雲が立っていた。どちらも封蘭を見ている。


「封蘭……夏侯惇にどうして言わなかったの?」

「え、何で言わなきゃいけないの?」

「……」


 駄目ね。夏侯惇、封蘭に嫌われているわ。
 大方先日のことが原因なのだろう。あれからずっと夏侯惇を見る度『どうしてお姉さんがあんな奴と……』と心底憎らしげに呟いていたから。

 封蘭が幽谷に異様な程に懐いているのにも驚いたが、考えてみれば幽谷は封蘭と同じ四霊。本能に染み着いた猫族への恐怖心が強い分、四霊への同族意識が強まってのことのようだ。
 それを思えばまあ……今まで幽谷が好きなのか、恒浪牙の義妹砂嵐が好きなのか分かってすらいなかった夏侯惇が疎ましい気持ちも、分からないでもない。どちらも幽谷であることに気付けなかったのは仕方がないとしても。

 だから敢えて関羽にだけ伝えた封蘭にしてみれば、それから関羽が廊下で出会った趙雲に話し、そこに夏侯惇が通りかかってしまったのは不如意な偶然だったことだったろう。
 にこやかな笑顔でも、金と黒の瞳は決してそうではないのがくっきりと見て取れた。

 しかし、夏侯惇と趙雲も行くことは確定である。関羽がそう決めた。


「――――もう良いわ。じゃあ封蘭、何処に行けば良いの?」

「さあ。それを決めるのは僕じゃないし」

「え?」


 首を傾ける関羽を一瞥し、封蘭は片手を振った。

 直後、耳鳴り。
 封蘭以外がほぼ同時に耳に手をやって怪訝に周囲を見渡した。だが、何も無い。ただ耳鳴りがするだけだ。

 封蘭は再び片手を振り、何処からともなく数枚の札を己の前へ浮かせた。

 耳鳴りが止む。
 札を見た関羽はあっと声を発した。
 札にはそれぞれ文字ではなく、違う風景が鮮明で写実的に描かれていた。


 幽州の隠れ里、
 隠れ里の近くにある滝、
 桑木村、
 焼けた洛陽、
 沛国礁県の曹操の城、
 シ水関、
 虎牢関、
 右北平、
 蒼野、
 下邱、
 妙幻や金眼と戦ったあの地。

 それらは全て、関羽が立ち寄った場所だ。幽谷も、然り。
 そんなものを並べてどうするのかと封蘭を見やれば、彼女は無表情に関羽を見据え、


「幽谷は、この何(いず)れかにいる」


 厳かな声で告げた。


「幽谷はすでに人間の地に落とされている。されど、自我の形成は完全ではなく、最上の状態でも記憶は修復されていない。そこで、霊亀・泉沈がまじないを授ける。幽谷のいる場所を当てよ。さすればまじないは成立しよう」

「ま、まじない……?」


 それはつまり、この札の中から正解を選べれば、戻らなかった幽谷の記憶が戻る、と?
 窺うように封蘭を見つめると、彼女は促すように札を揺らめかせた。


「関羽と幽谷にとって最も印象深いところ。それが、彼女の落ちた場所」

「わたしと、幽谷の――――……」


 印象の深いところ。
 関羽は札を一枚一枚見定めた。幾つか除外出来る物もあるが、それにしても可能性のありそうな物も何枚かあった。

 関羽の中で印象深い、それだけでは駄目なのだ。
 答えはきっと幽谷と関羽の間で、一番重要な場所。
 それが、この中のどれか。


 幽州の隠れ里、
 隠れ里の近くにある滝、
 虎牢関、
 妙幻や金眼と戦ったかの地。


 関羽の中で導き出された可能性の高い場所と言えば、この四つ。
 この中で自分と幽谷が……。


「……如何に」


 それは決して急かす言葉ではなかった。むしろ慌てずによく考えろと言う、封蘭の助言が滲んだ問いだった。
 関羽は唇を真一文字に引き結ぶ。目を伏せて広大すぎる記憶の海に手を突っ込む。掻き回してその答えを探した。

 夏侯惇や趙雲も、彼女を急かしはしなかった。焦らせて間違うよりも、時間をかけてでも正解を導き出させることを、暗黙のうちに選んだ。


 どれくらいの時間が経っただろうか。
 関羽は瞼を押し上げて――――迷わず手を伸ばした。


 彼女の取った札は。


「幽谷は、この滝にいるわ」

「……」


 封蘭は、すっと目を細めた。



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