ぽたりと落ちた一滴。

 無色のそれは色を帯び、

 赤となって染み渡る。

 色づく陶器は柔らかく。

 脈動する中身。

 息づく意識。

 誰かが傍で、微笑んだ。


「さあお行き。在るべき場所へお帰りなさい」


 その声は知っているようで知らない声だった。




‡‡‡




 封蘭は歩く。
 夢ではない、全てが闇の中でも冴え冴えとした現実の世界を。
 伝えるべきことがあるから、歩く。
 彼女らを目指して歩く。

 彼女の抱えるそれは、とても重たいものだった。伝えるか伝えないか、それによって事はどちらにも転がってしまう。
 封蘭は勿論、伝えることを選択した。彼らには借りがあるからと、自他共に認める偏屈な自身にそう言い聞かせて。

 ただ……動物達に目的の人物を捜させたところ、どうも、割り込みづらい空気であるようで。
 まあ、邪魔するのも一興だ。最近公衆の面前でも迷惑な空気を振りまいているから、この際はっきりと言ってやろうか――――否、面倒臭い。何でこっちがそんなことをしなくてはならないんだ。
 封蘭はほうと吐息を漏らした。

 ……と。


「封蘭? こんな時間にどうした」

「……何だ、趙雲のお兄さんか」


 足を止めて、目の前の角から現れた趙雲に、落胆したように肩を落とす。これが女官だったなら、伝言を頼んで終われたかもしれないのに。
 「ちょっと関羽のお姉さんに用事」と欠伸混じりに趙雲の脇を通り過ぎる。


「明日に回せないのか? 子供はそろそろ寝た方が良い」

「実際年齢どの生き物よりも高いからお気遣い無く」


 ひらひらと片手を振って、角を曲がる。
 彼らの封蘭に対する扱いに、彼女は未だに慣れていなかった。自分を排他した者の子孫に真綿にくるまれるような感覚がおぞましく、苛立ちを覚えてしまう。それはもうどうしようもない本能からの拒否反応だった。

 一人でいたがるのも、その為だ。問題を起こすつもりはないから必要以上に構わないで欲しい。憎悪が無いから狂わない訳では決してないのだ。

 この環境下で生じる齟齬(そご)全てに、封蘭の精神は容赦なく抉られた。

 関羽も、世平も、劉備も、周りよりはかなりましだから側に寄るだけ。先祖の面影が見え隠れする時だって、ままにある。
 誰も、封蘭の葛藤に気付く者などいやしなかった。

 それでも、おくびにも出さずに周囲の望むように動いているのは負い目と借りがあるが故のことである。

 いつか、きっと。
 封蘭は猫族のもとを去るだろう。猫族と決別して、自分だけで生きていくことになるだろう。
――――いや、そうしたい。
 どう足掻いても、猫族は永遠に自分の居場所には成り得ない。やり直すことなど不可能だ。これ以上さしたる効果も無い気遣いをさせるよりも、その方がずっと良い。

 別に、独りでいることには慣れている。
 それに寂しくなったら淡華のもとに遊びに行けば良い。あそこには泉沈もいるし、星河もいる。……要らぬ地仙もついてくるが、この際目を瞑ることとする。

 ほんの十五年。
 自分の身体に残された寿命は短い。
 今まで生きてきた時間と比べれば、たった十五年独りで世界を旅することのなんと些末なことか。

 歩きながら、封蘭は長々と嘆息する。


「……疲れる」


 ぼやいて、とある部屋の前で立ち止まる。
 声もかけずに扉を開けて入ると、関羽の短い悲鳴が上がった。

 寝台に、曹操に押し倒されている関羽が顔を真っ赤にしていた。曹操に脱がされそうとしたまさにその時らしかった。
 ……何だろう、既視感がある。

 ……。

 ……。

 ……。


「ああ、そうそう。呂布と貂蝉が愛の営み中だった時だ」

「人の邪魔をして言うことがそれか」

「きゃーマジ超破廉恥ーやらしー絶倫ーキモーイ」


 しなを作って身を捩って見せると、曹操が俄(にわか)に殺気立った。が、大して怖くはない。


「大した用が無いなら帰れ」

「はいはーい。曹操のお兄さんには大した用事が無いからさっさと帰るよー。今からちょっと迎えに行かなくちゃならないか数日留守にするね〜」

「……迎えに?」

「うん」


 幽谷のお姉さんが完成したんだってさ。
 その言葉に、関羽はほぼ無意識に曹操を押し退けた。

 封蘭はしたり顔で「文句は曹操のお兄さんに言ってね〜」と子細を語らず小走りに部屋を後にした。

 関羽が首筋に幾つかの痕を付けたまま封蘭を追いかけてくるのは、それから暫くのことであった。



‡‡‡




「これは、困ったな」


 どうも……不具合があるらしい。
 だがこれ以上の手は加えられないし、作り替えれば次に上手く行くかも分からない。何度も蘇生を試みては悉(ことごと)く仕損じているのだから。これが最初で最後の成功かもしれない。

 この分野に於いて誰よりも秀でた彼にとって、これが最上の出来であった。


「なら、私がどうにかしてみようか」


 彼に微笑んだのは、漆黒の貴人である。



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