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桃の花が咲き誇る庭園。
そこを、封蘭は歩いていた。息づく大地を踏み締めるように、その力強い生命を感じるように、ゆっくり、ゆっくりと。
彼女の側には誰もいない。たった一人で、宛も無く彷徨(ほうこう)する。
だが、封蘭一人なのは当然のことだ。
これは封蘭が見る夢。
それも、外部と繋がった現実に限り無く近い奇異なる夢なのだ。封蘭以外に《地上の》人間は侵入出来ない。
この夢を見るのは随分と久し振りだった。良い思い出も悪い思い出もある。
けれど、この地上で母親のように心を許し、慕っていた女性との唯一の連絡手段であった。
再びこの夢を見ると言うことは、彼女から報せがあるということ。
それは吉か凶か。聞いてみるまで分からない。
適当に真っ直ぐ歩き続ければ、いつか目的地に辿り着く。この夢はそういう造りになっている。
――――ほら、見つけた。
散った桃の花弁が良質な無地の絨毯のように敷き詰められたその広間に、漆黒の聖者が淑やかに佇んでいた。
側に灰色の狼を従えて。
‡‡‡
「やあ、久し振りだね。封蘭」
漆黒の聖者は――――泉沈は目を細め、口元を綻ばせた。小首を傾げれば艶やかな髪がさらりと涼やかな音を立てる。
封蘭は泉沈の前に立って灰色の狼を見下ろした。
はちきれんばかりに太い尻尾を振って、封蘭を見上げている。今か今かとその時を待って瞳が輝いていた。
封蘭は暫く狼と見つめ合って、唇を開く。
「星河」
途端、狼は封蘭に飛びついた。
尻餅を付くと覆い被さって顔を舐めてくる。会いたかったと、過剰に伝えてくる狼に苦笑が禁じ得なかった。
「こら、こら。星河。封蘭が困っているよ。それに僕達はお仕事があるだろう?」
窘(たしな)めつつ、泉沈も苦笑を浮かべていた。
星河はくうんと鳴いて封蘭の上から退いた。封蘭が立ち上がるとその横に座る。
「星河は、本当は来る筈ではなかったのだけれど、いつの間にか僕にくっついて夢に入り込んでしまったみたいなんだ。僕の力で生きていたからそんな芸当が出来てしまったのだろうね」
泉沈は肩をすくめ、視線を星河から封蘭へと戻した。
「……さて、君がこの夢を見る意味は、分かっているね?」
「報せを持ってきたんでしょう?」
「そう。彼女と恒浪牙からの報せをね。彼女は過労で体調を壊してしまったから僕が代わりに。……ああ、大丈夫だよ。暫く安静していれば良くなる。医術を会得している恒浪牙もいることだしね。……いや、もう華佗(かだ)と呼ぶべきなのかな。《恒浪牙》はあくまで庶民としての三十三番目の名前なのだし、」
「そいつのことなんてマジどうでも良いから」
話の軌道が逸れようとしたのをぴしゃりと止めると、彼は苦々しく笑みを歪めて唇をへの字に曲げた。
「本当に、君は華佗が嫌いなのだね」
「良いから。報せを教えてよ」
促せば泉沈はつまらなそうに唇を尖らせる。こういった子供っぽくて人間臭い仕種をするから、妙幻にも嫌われているのだ。この外見でこんなことをされると、意外と苛立つ。
腕組みして左足に重心をかけ、片目を眇める。
すると泉沈も、居住まいを正して表情を改めた。
「では、伝えよう」
伏せ目がちに、彼は報せを告げた。
‡‡‡
浮上する意識。
冴えていく思考。
緩慢に重い瞼を押し上げると、視界の右に見慣れた少年が封蘭を見下ろしていた。
一瞬だけそれが遠い昔の親友に見えて、懐旧の念が胸に点る。けれどもそれはすぐに消えた。
「……ああ、劉備か」
「劉珂でなくて、ごめんね」
「誰も、そうは言ってないだろ」
のっそりと上体を起こして欠伸を一つ。
空を見上げれば、すでに世界は橙色に染め上げられていた。地平線の向こうには、燃ゆる太陽がつかの間
別れを惜しむように半分だけ顔を覗かせていた。
……ああ、そうだった。
ここは許都近くの小山の麓。日当たりの良い、昼寝には絶好だと封蘭が気に入っていた場所だった。それに、ここにいれば一人落ち着いていられる。
立ち上がって背筋を伸ばす。
劉備も立って封蘭に微笑みかけた。
「帰ろう。関羽がご飯を作って城で待っているよ」
「……ん」
ぼりぼりと頭を掻きながら、封蘭は歩き出す。
何処か心ここに在らずと言った体の彼女に、劉備は首を傾けた。寝ぼけているようには、見えなかった。
「封蘭? どうかしたのかい」
「別に。ちょっと、今からすることの順序を考えてるだけさ。――――まあ、《奴》には死んでも言わないけど」
「奴?」
「こっちの話だよ」
そんなことよりも、早く城に戻った方が良いんだろう。
腕を天へ向けてぐんと伸ばす。
劉備はまだ怪訝そうだが、何も問うて来ない。
問われたところで答えるつもりはないのだけれど。
だって、その報せを一番にもたらすべきなのは、劉備ではないもの。
前方に小さく見える城壁を見、封蘭は目を細めた。
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