関羽が封蘭を連れて曹操の私室を訪れると、夏侯淵の姿は無く、夏侯惇と曹操の二人だけが書簡を携えて話し合っていた。
 曹操は顔を上げ、間を手伝って干菓子を乗せた盆を持つ封蘭の姿に瞠目した。

 目が合った封蘭が関羽の背後に隠れると、さっと視線を逸らす。
 関羽は封蘭を先に入れて入室し扉を閉めた。


「そろそろ休憩した方が良いわ。お茶をするくらいの余裕はあるでしょう?」

「……」


 それに、封蘭が周囲に慣れる練習にもなる。
 曹操は関羽の思惑も分かったようで、仕方がないと言わんばかりに書簡を机に置いた。夏侯惇がそれを戻そうとすると、手で制し、関羽の手にした茶を示して彼にも休憩に加わるように無言で指示した。

 夏侯惇は躊躇うも、曹操に再び同じように指示されてしまえば拒絶は出来なくなった。
 畏れ多いと曹操に拱手して書簡を机の上に置いた。

 関羽はそれに満足げに頷いた。
 封蘭に言って干菓子を置かせ、それぞれに茶を淹れてやる。夏侯淵の分は仕方がない。

 封蘭は目を背けながら小さく礼を言って一口啜る。ちゃんと関羽の隣だ。それもぴったりとくっつく。

 その様子を、曹操は珍しいものを見るかのように眺めていた。

 彼の気持ちも、分からないでもなかった。
 今の封蘭は身形もそうだが泉沈だった頃よりもずっと女の子らしいのだ。
 それに、元々が臆病だったので心細いと関羽達にぴたりと張り付いて移動することもある。ただ、負けず嫌いな部分が素直にさせないことも多々あるが、そういう時は、関羽や劉備はさり気なく側にいるように心がけていた。

 戸惑いが多い変わりようだが、彼女が本来の姿に戻っているのが、関羽にはとても喜ばしかった。猫族の一員として、ちゃんとやり直せているような気がして。
 封蘭の頭を撫でると、ぴくりと耳が微動した。
 むすっとした封蘭の顔が関羽を仰ぐ。

 小さく謝罪すると、ぷいっと顔を背けられた。それが微笑ましくてついつい笑ってしまう。脇腹を小突かれた。


「……ところで、封蘭。趙雲から、四霊の力が使えるようになりつつあると聞いたが?」

「えっ、そうなの?」

「……ん。まあ、昔みたいに派手なことは出来ないけど、水の刃を飛ばしたり、短時間幻覚を見せるくらいには。この身体じゃ、それが限界」


 ちょっとだけ悔しそうだ。
 しかし、それは封蘭が今の身体に慣れていたということ。
 関羽はそれを素直に喜んだ。

 すると、封蘭は干菓子を銜えて関羽に背を向ける。耳が赤かった。


「……そうか」

「……戦、出すの?」


 つい、と封蘭が窺うように肩越しに曹操を振り返る。

 曹操は首を左右に振った。


「その気の無い者を出すつもりはない」


 封蘭はほっと吐息を漏らした。ばりばりと干菓子を噛み砕く。


「ただ、動物達に偵察をさせることは出来ないか」

「……それは大丈夫だと思うけど。身体に慣れてなくても、動物とは話せるし」

「それだけ役に立つなら後はどうでも良い」


 曹操は茶を飲み、夏侯惇をちらりと一瞥した。

 彼は、さっきから何かを思い詰めたように茶を見下ろしている。
 封蘭をちらりちらりと見ては、躊躇うように目を伏せる――――短時間で十回以上は繰り返していた。

 関羽や封蘭も、気が付いている。否、気が付かない方がおかしい。


「……あの、夏侯惇? 何か言いたいことがあるの?」


 見かねた関羽がそう言うと、夏侯惇は大袈裟なくらいに身体を震わせて、何故か唾を気管に詰まらせ咳き込んだ。

 冷めた目で、封蘭が夏侯惇を眺める。


「どうせ幽谷のお姉さんが戻ってきたかどうか、でしょ」

「いや……いや、それもあるんだが、少々、気になることがあってな」

「はっきり言えば? そういう情け無い姿、幽谷のお姉さんに幻滅されちゃうと思うよ。気持ち悪い」


 ずばっと斬られ、夏侯惇は言葉を詰まらせた。
 が、ややあって気を取り直すと、封蘭を呼んで問いかけた。


「前に、お前が一緒にいた女性のことを覚えているか。あの、盲目の」

「え……」

「あの女性が恒浪牙の義妹の砂嵐であって、そしてその砂嵐の魂を定着させる為の繋ぎの為に幽谷の魂が使われたという話なんだが……それは本当か」


 ぶほっ!


「ちょ、封蘭!?」


 茶を噴き出した封蘭は激しく咳き込んだ。
 丸められた彼女の背をさすりつつ、関羽は夏侯惇を見やる。

 夏侯惇は困惑していた。


「げほっ、ごほっ」

「だ、大丈夫?」

「うぐっ……ちょ、君それ本気で言ってるの?」

「は?」


 封蘭は関羽に布巾を借りて噴き出してしまった茶を丁寧に拭き取りつつ、夏侯惇に馬鹿を見るような蔑んだ目を向けた。


「一つだけ訊くけど、君にとって本当に好きなのは、僕と一緒にいた女性と、クソ地仙の義妹だっつー砂嵐と、幽谷のお姉さん、どれ!」

「な? は……何、」

「はい時間切れ!!」


 パンと手を叩き、封蘭は頭を抱えた。「この馬鹿を幽谷のお姉さんが、なんて……」と世も末のような顔で唸っている。
 夏侯惇は怪訝に眉根を寄せた。


「どういうことだ?」

「もしかしなくても、君。その砂嵐と幽谷は違う、じゃあ俺はどちらが好きなんだーっとかふざけた疑問持ってないよね? あんたそこまで馬鹿じゃないよねっ?」


 眦をつり上げて鬼気迫る風情で夏侯惇を問い詰める。

 夏侯惇は当惑した。心の中を見抜かれたことよりも、封蘭の態度の理由が分からないのだろう。助けを求めるように関羽に視線をやった。

 が、関羽にもよく分からない。

 関羽が封蘭を呼ぼうと口を開いたその直後、封蘭は関羽を見やり、ぐぐっと近付いて胸座を掴んできた。どうして、わたしが。


「あ、あの、封蘭?」

「良いの!?」

「え? 何が?」

「こっっんな馬鹿な馬の骨に幽谷のお姉さん盗られるんだよ!?」

「ちょ、ちょっと落ち着きなさい封蘭……!」

「落ち着いてたら駄目なんだって!!」

「……さっきから、何なのだ、一体」


 曹操が嘆息混じりに独白すると、今度は彼が封蘭に睨まれた。


「……だぁかぁらぁ〜……!!」


 あの女もクソ地仙の義妹も、幽谷のお姉さんだったんだっつのっ!!
 怒号を上げる封蘭に、関羽は反応に困った。



――――ただ、一つ。
 臆病で人との付き合い方に多大な不安のある封蘭は、幽谷に一番懐いているということは、よく分かった。



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