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良いですか、器の端々には清浄な気が多少残留しています。あなたの器は清廉な気に包まれた環境で、犀家の力を受け継いだ犀華殿の身体から、狐狸一族(フーリ)の末裔である砂嵐に作られていますから、当然のことですね。
金眼にとっては毒でしかない器の中に金眼を一時的に閉じ込めることが出来れば、後は私が確実に消滅せしめます。
その際、幽谷の自我は確実に消失しますね。ですがその時期が成功の鍵であり、幽谷にとっては無理難題です。
金眼を器に押さえた途端あなたの自我は金眼の邪気に圧迫され、激しい苦痛に襲われることになりますが、私が器を回収するまで絶対に自我を保っていて下さい。自我を保てば器が破壊されることは無い。妙幻も、まあ多分きっと無事に大人しくしてくれるでしょう。……え? いやいや、別に幽谷の自我が無くなって妙幻が出てきたら何もかもが台無しになってもう破滅を覚悟しなくてはいけないとか、そんな理由で言ってるんじゃないですよ。ええ、そうです。幽谷は犀華殿の力で自我を保っているのですから、自我を保持することは即ち犀華殿の力が器内を巡っているということ。それもまた重要なことなのです。
私も恐らくは――――ああ、いや。それはどうでも良いことでしたね。
とにかく、質問は無しでお願いしますよ。その時間も惜しい。久し振りの早口で顎も少しだけ疲れていますしね。
‡‡‡
そんなこと許せる訳がない。
関羽は吼(ほ)えた。別の方法を何度も乞うが、質問は無しと言った恒浪牙はことごとくを黙殺する。無表情に、射抜くような強い眼差しで幽谷の答えを待つ。
幽谷の返答など、決まりきっていた。
「分かりました。やります」
「幽谷!!」
関羽を見下ろし、そっと双肩を掴んで曹操へと押しつける。彼女を絶対に離すなと視線で乞うた。
曹操は難しい顔をしていたが、すぐに頷いた。幽谷に駆け寄ろうとする関羽の肩をしっかりと抱いて押さえ込む。
すると張飛と関定が押し寄せた。
「幽谷、止めとけって! 別の方法があるかもしんねーだろ!?」
「そうだぜ、今から急いで皆で考えれば何か良い案が――――」
「――――二人共、恒浪牙さんの策が一番の良策なんだよ」
「……! 劉備っ」
趙雲と蘇双に支えられながら、劉備が近付いてくる。霧の影響を強く受けてしまっているのか、先程よりもずっと顔色が悪かった。
劉備が手を伸ばすのに、幽谷は慌ててその手を取った。
弱々しい力で握り締められる。
「ごめんね。僕の所為で君に沢山負担をかけてしまう。けれど、恒浪牙さんの策が一番良いんだ。僕には、それ以外に何も無いのが分かってしまう」
劉備は眦を下げて再び謝罪する。
幽谷はかぶりを振って否とする。
「いえ。恩返しの一つにございますれば」
「……昔から、君はそうだよね。結局は尻拭いのようなことでも嫌がらないでしてくれる」
「ごめん」幽谷の頬を撫で、劉備は握り締めた幽谷の手に額を当てる。体勢を崩したのを幽谷が抱き締めるように支えた。
「……皆を守りたかったんだ。封蘭も一緒に、僕が皆を守って、幸せにしたかった。無力の罪を償う為にも」
「それこそが、あなたの罪です」
幼子にするように、そっと背中を撫でた。年相応の彼の背は、少しだけ硬かった。
「その勘違いが、あなたが償うべき罪でした。もっと早くに、罪に気付いていたらまた違っていたのかもしれない。金眼に囚われることも、無かったやも」
「……うん」
「あなたは、あなたにしか無い力で猫族の皆さんを助けられていたのですよ。……とても昔から」
「うん」
「ですから、今この時からは、改めて下さい。あなたは決して無力ではない。誰にも出来ないことを、あなたは出来る」
劉備の身体をそっと離して趙雲に預ける。
趙雲や蘇双も物言いたげだった。だが、彼らが口を開く前に劉備が語気を強めて言った。
「こんな身分ながら頼みがあるんだ、幽谷。……猫族の長として」
「何でしょう」
「君の覚悟を許す代わりに、どんな形でも良い、いつか必ず封蘭と一緒に猫族に戻ってきて欲しい」
幽谷は瞠目した。
困惑して、視線を泳がせた。それが出来ない望みであると分かっているからこそ、答えに窮した。
だが時間が無い。
でも安易な答えは出来ない。
何度も口を開閉して躊躇う幽谷を、趙雲が呼んだ。
彼は嘘でも良いと口の動きだけで急かした。
それが良いと、幽谷も思う。
が、しかし。しかしだ。それでも、幽谷には出来なかった。
「劉備様、それは――――」
「分かりました。私がお約束しましょう」
「なっ」
ぎょっと恒浪牙を見る。彼が返答したのだった。
非難するように睨めば彼は人差し指を自らに指差して穏やかに微笑んで見せた。
それは、自分が勝手に約束したことだから気にするなと言っているのか、はたまた別の意味があるのか――――。
「……良かった」
劉備は安堵したように微笑み、絶入する。
それに伸ばしかけた手を恒浪牙がやんわりと掴んで止めた。
「時間がありません。泉沈の気配が、急激に弱まってきています。恐らくは人間達を助ける為に自分の生気を放ち始めたのでしょう」
「……分かりました」
幽谷はそぞろに拱手(きょうしゅ)して霧に向き直った。
されどすぐには中に入らず、何かを思い出したように夏侯惇を呼んだ。
夏侯惇は殺気を孕んだ眼差しで幽谷を睨んでいた。理由は分からない。何もしていない……と思う。
一瞬、気圧されて躊躇ったものの、彼に手を差し出した。
「あの、母の腕輪をお返し願」
「断る」
「え」
夏侯惇は幽谷に背を向けた。……何処か、拗ねた子供のようにも見える彼の後ろ姿に幽谷は当惑する。
「断ると言われましても、あの……それは私が母から与えられた物で、」
「ならば、いつか取り返しに来れば良いだろう」
突っ慳貪に言い放つ夏侯惇に、幽谷はああ、彼もかと胸を突き刺されるかのような痛みを覚えた。
無理なのに。どうして劉備も夏侯惇もそんなことを言うのだろうか。
差し出した手を下げると、恒浪牙が小さく噴き出した。
「……本当に愛されていますね」
感慨深げに言いながら幽谷の背中を押し、霧へと近付く。――――夏侯惇との約束をも、本人の許可も無く勝手に受けて。
幽谷は地仙を睨み、蟠(わだかま)りを残したまま改めて霧を見据えた。諦めろと言うように背中を軽く叩かれた。
「……恨みます」
「ええ、どうぞ」
もう、仕方がないと、雑念を胸の奥へ押し込んだ幽谷の耳はしかし、その声だけはしっかりと拾い上げる。
何度も何度も幽谷を呼ぶ少女の声がする。彼女だけは、幽谷の意思を許してくれていない。……いや、それは心の中では誰でもがそうなのかも知れない。目が、まだ非難のそれだもの。
彼女はきっと、幽谷が消えるまで叫び続けるだろう。
胸がちくちくと刺されるように痛む。
胸が温かなもので満たされる。
恒浪牙は関羽の方を一瞥して、痛ましげに目を細めた。幽谷に申し訳なさそうに言って、
「本当に時間がありません。泉沈を見殺しにすればこの場の調和も崩れてしまう恐れもありますし、満足な会話をさせてあげたいですが、許して下さい」
「いえ。大丈夫です。……あの、恒浪牙殿」
「すみません。頼まれたことは実行出来そうにありませんね」
恒浪牙は安堵を滲ませて言う。
やはり彼にとっては辛いことをさせてしまうところだったのか。
幽谷は緩くかぶりを振って、小さく謝罪した。
恒浪牙は目を伏せ、表情を引き締めた。
「――――お願いします」
「待っ、だ、駄目!!」
幽谷は頷いて、霧の中に飛び込んだ。
「放して曹操!! 幽谷が、幽谷がぁ!!」
主の悲鳴に背後から何度も何度も心臓を貫かれながら。
世界が橙色に染め上げられる。
戦いの終焉を迎えたその場所には、もう誰もいなかった。
ただ、地面に張り付くように広がったかの地仙の装束のみが、微かな存在感を醸(かも)すのみ――――……。
―第十章・了―
●○●
次はゲームで言うグッドエンドです。
本当はこの章、最後の部分はもっともたもたする予定だったんですが、いや、それは霧の中の人達ヤバイでしょ、となったのでカット。
夏侯惇が夢主を睨んでいたのは夢主が猫族との会話のみで終わってしまったからです。
趙雲も相当我慢してたかと思います。止めたかったんだろうなぁ……。
さて……夢主と封蘭はどうなったんでしょうね。
あと牙さんも服だけ残して所在不明。
期待……はあんまりしない方が良いかも。
話の終わりの下手さには自信があります←
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