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 金眼の残滓を追いかけていた幽谷は兵士の前に誰かが横たわっているのに気が付いた。
 ぞっとした。

――――封蘭!!

 そこには気を失った封蘭が横たわっていた。まだ、目覚めていないらしい。


「まさか、封蘭の身体に取り憑くつもりなの……!?」


 マズい!
 金眼が封蘭に取り憑いてしまえば封蘭が危険だ。
 折角、折角もう少しで楽になると言うのに。
 また彼女を苦しめるなんて、絶対にあってはならないことだった。

 らしくなく慌てた幽谷は声を荒げた。


「恒浪牙殿!!」

「はいはい。来てますよー」


 こんな時にも穏やかで間延びした声である。
 隣を走る恒浪牙は金眼の残滓を捉えながら「劉備殿が駄目なら憎悪の塊に、って訳か」と感心したような、呆れたような、怒ったような……形容しがたい複雑な顔をした。


「危険ですね。封蘭の身体は四霊用に調整されています。そこに金眼の残滓が入り込めば身体が拒絶反応を起こしかねない。最悪身体を構成する物質が乖離(かいり)した後、陰の気で再構築し、人の身体でなくなる可能性も……」

「……急ぎます」


 ぐんと速度を上げると、甲高い音が聞こえた。
 鼓膜を容赦なく突き刺した声は脳をも揺るがし、たまらず幽谷も恒浪牙も耳を押さえて足を止める。

 金属が擦れ合っているような音だった。それが大地を揺るがす騒音となって辺りに響き渡る。
 鋭い針で鼓膜から脳まで一気に貫かれたようなキツい激痛は耐え難く、思わず掠れた呻きが漏れてしまう程だった。
 幸い、耳がおかしくなる前に止んだものの、それは金眼に逃げ込む時間を与えたことに他ならなかった。


「封蘭!!」


 声がした。
 それは、幽谷がこの戦場ではもう聞くことは無いだろうと思っていたもので。


「……泉沈?」


 泉沈。
 封蘭に宿る、四霊・霊亀。
 表に出た時とは声の質がだいぶ違うが、それでも泉沈のそれに相違無かった。
 幽谷は舌打ちして再び駆け出した。

 近付くうち、封蘭が横たわっていた筈の場所から茶褐色の霧が吹き出した。兵士達の悲鳴が聞こえ、それはたちまちに呻吟(しんぎん)へと変化する。強い毒素があるのだろう。
 封蘭の身を案じ、幽谷はひたに走った。

 しかし、霧は急速な広がりで兵士達を呑み込んでいく。澱んだ霧は、見通しを悪くさせ、何処に誰がいるのか外からは判別がつかなくなってしまった。
 二歩手前で立ち止まり、幽谷は目を細める。手で鼻と口を覆い、恒浪牙を呼んだ。

 彼は顎を撫でながら、「困りましたね……」苦々しく呟いた。
 落胆が濃く滲む彼の横顔を見た瞬間うなじがじりじりと痺れた。


「これはどういうことです」

「拒絶反応ですよ。私が言った最悪の状態……いや、それ以上になってしまった」


 恒浪牙は舌を打ち、右手を薙いだ。
 刹那、一陣の風が吹き荒び霧を払った。

 が、晴れたのも一瞬のこと。
 すぐに茶褐色の霧は辺りに広がっていく。
 その間に幽谷はしっかりと捉えた。

 苦しげに地面にうずくまる泉沈と星河、そしてその側で不気味に蠢動する醜悪な肉塊を。

 肉塊は間違い無く封蘭だ。何が遭って泉沈が外に弾き出されているのかは分からないが、泉沈が抜けた為にあのような姿になってしまったのだ。
 早く助けなければ。

 ……だが、どうやって?


「これでは満足に近付けませんね……」

「人間達や猫族の方々も呑み込まれています。このまま手を拱(こまね)いていては彼らの命が、」

「幽谷!」


 関羽達が追い付いた。
 猫族や人間達を案じて霧の中に飛び込もうとする関羽を制し、幽谷は思案する。


「金眼を封蘭から除去すれば良いのでしょうが……」


 劉備にやったように追い出しても、金眼の残滓は消えない。また逃げられるだけだ。
 それに、……犀華の力も、もう残り少ない。幽谷が表に出られるのも後少しだ。

 下唇を噛み締め幽谷は拳を握り締める。

 妙幻の力がもっと上手く使えたら――――。


「――――あー、幽谷。非常に申し上げにくいんですがね、一つだけ方法を思い付いてしまったのです」

「何です」


 問うと、恒浪牙は渋面を作ったまま、苦しげに告げた。


「一度限りの不確実なものです。これをやれば失敗してもあなたはこの世界から消失するでしょう」

「そんな……!」


 関羽が恒浪牙に飛びついた。袖を掴んで別の方法を乞う。

 幽谷は沈黙したままだった。
 彼女の頭の中には、消えることよりも、成功の確率が極めて低いことが引っかかった。
 失敗して自分が消えたら、後に残された関羽達に金眼を退け封蘭を救うことが出来るだろうか?

 答えは否だ。
 まだ恒浪牙がいるけれど、何となく、彼の力を借りても解決しない、そんな確信めいた憶測があった。

 幽谷はつかの間目を伏せて恒浪牙を見やった。


「恒浪牙殿。もっと確実な方法はありませんか。私が消えることなどは関係無く。いえ、むしろこの器を利用して確実にすることは出来ませんか」

「なっ」


 関羽が非難するように幽谷を見上げる。
 幽谷は彼女の頭を撫でて恒浪牙も促した。

 恒浪牙は不本意そうな顔をした。が、霧を一瞥して長々と吐息を漏らした。


「そうですね。……まあ、一応そちらも思い付いてはいますねぇ」

「それならそれを聞かせて下さい。下手に隠せば容赦はしませんよ」


 恒浪牙は眉間を押さえて天を仰いだ。


「あー……本当献身的過ぎて貧乏籤(びんぼうくじ)引いていることにも気付かれていない。私、怒られてしまいますよ。あなたの母君に」

「……良いから、」

「ああはいはい。言います言います。実際問題、このまま放置すると霧に呑み込まれた方々が助かっても後遺症が残ってしまいそうですからね。……あなたは本当に、貧乏籤で良いんですね?」


 幽谷は力強く頷いた。関羽が何かを言おうとしたのすかさず手で口を塞ぐ。非難の目は彼女だけのものではなかったが、何も言わない辺り、逼迫(ひっぱく)した事態を慮(おもんぱか)ってくれているのだろう。幽谷としても、関羽以外にも止められたら、正直キツい。

 恒浪牙は関羽を同情的な目で一瞥し、幽谷に頭の中にある策を手短に告げた。

 幽谷は、その策を貧乏籤だとは思わなかった。



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