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 花が咲いた
 花が咲いた

 甘い香りに誘われて
 蝶々 蜜蜂
 舞い踊る

 風が運ぶええ匂い
 後にはたわわに実っておくれ
 腹膨れる程に
 実っておくれ

 花が咲いた
 花が咲いた

 さあ 皆混じれ 喜べや
 蝶々 蜜蜂
 舞い踊れ

 おっとう おっかあ
 笑ってる 笑ってる

 ついでに我も
 笑ってる 笑ってる


 懐かしい声が、懐かしい歌を歌っている。

 彼女は瞼を押し上げた。清々しい大空と、果ての見えない草原を見渡し、こてんと首を傾けた。
 今の今まで何をしていたんだっけ。何処にいたんだっけ。ここだったのかな。ここで何をしていたのかな。

 この声……何処にいるのかな。
 何処にも姿は見当たらない。
 歌い終わるとまた同じ歌を歌い出す。

 何処で歌っているんだろう。
 実は声の主はここからでは見えないくらいに遠い場所にいて、声だけが、こんなところまで流れてきているんだろうか。だとすれば、凄いや。きっととても大きな声で歌っているんだ。前方には何処にも見当たらないのにまるで近い場所にいるみたいに、しっかり聞こえてくる。
 でも不思議だな。とても、大声で歌っているとは思えない穏やかな声なのに。どんな咽をしているんだろう。

 ……あれ?
 あたし、今『前方に』って言った?
 あ、言っていない。思ったんだ。
 そう言えば口ってあるのかな。――――あ、あった。じゃあ足は? 手は? 身体は? あれれ、足と手って身体の一部なんだっけ。まあ良いや。身体はあるんだし、手も足もあるね。

 ええっと、何を考えていたんだっけ。
 ああそうそう。『ゼンポウ』だ。
 『ゼンポウ』って、何だっけ? 『ゼンポウ』をどうしたいんだっけ?
 ゼンポウ、ゼンポウ、ぜんぽう、前方……。

 そっか、『前方』だったんだね。
 前方を見れば良いのかな。

 だけど何も無いよ。前方をどうしたかったんだろ、あたし。

 彼女は渋面を作り、身体を反転させた。途端にあっと声を漏らした。

 そうだ、そうだ。『前方』に何もいないから、『後方』を見れば良いんじゃないかって――――閃いたのは今? 前?

 腕組みしてううんと唸る彼女はしかし、はっとしたように顔を上げた。歌が止んだのだ。
 けれどすぐに始まる、全く同じ歌。
 さっきまでの後方、現在の前方の彼方に、ぽつねんとその姿はあった。

 少年だ。空の下方に屯(たむろ)する雲と混じっているが、彼女とはさほど年の離れていないような少年だ。
 ……いや、違う。
 あの少年は姿が少年なだけで、中身は大人だ。そして、この声の主でもある。
 どうしてか、彼女はそれを知っていた。おかしいな、初対面だって気もしない。

 彼女は少年の歌声に誘われるように足を踏み出した。硬い地面の筈なのにふわふわした場所を進み、少年へと近付いていく。
 知らない気はしない。知っている気がする。覚えていないのに、覚えている。
 矛盾だらけの自分。
 何故か、胸が痛い。


 花が咲いた
 花が咲いた

 甘い香りに誘われて
 蝶々 蜜蜂
 舞い踊る

 風が運ぶええ匂い
 後にはたわわに実っておくれ
 腹膨れる程に
 実っておくれ

 花が咲いた
 花が咲いた

 さあ 皆混じれ 喜べや
 蝶々 蜜蜂
 舞い踊れ

 おっとう おっかあ
 笑ってる 笑ってる

 ついでに我も
 笑ってる 笑ってる


 近付くにつれ、少年の姿がはっきりと輪郭を帯びていく。
 白髪に金色の目をした少年だった。
 愛おしげな顔して歌い続ける彼の側に立つと、歌が止む。

 愛くるしい少年の顔が彼女の方へ向けられた。


「これは、僕と君が一緒に作った歌だったよね」

「君とあたしが? 歌は形が無いよ。どうやって作るの? 君は、『ぼく』と言う名前なの?」


 くすくすと少年は笑う。


「皆、形が無いものだって作れるよー。それと僕は『ぼく』じゃない。僕の名前は、君が思い出さなくちゃいけない。ううん、思い出して欲しいなぁ」

「思い出す? どうして思い出すの? どうやって思い出すの?」

「君が思い出さなきゃ、僕は君に謝れないからねぇ」

「謝るの? じゃあ君は何か悪いことをしたんだね。だったら君は捕まってしまうのかい? ……あれ、誰に捕まってしまうのかな」

「さあ、誰だろう。僕にも分からないね」

「そうか。分からないんなら仕方がない」

「ああ、仕方がない。でも、僕のことは思い出して欲しいな」

「どうして思い出すの? どうやって思い出すの?」

「僕は君に謝れないんだ」

「悪いことをしたの? 君は誰かに捕まるの? 誰に捕まるのか教えてよ」

「君に嫌われても仕方のないことをしたんだ。僕は捕まらないね。僕を罰するのは君だもの」

「どうやって罰するの? ……あ、待って。分かった。四肢と四頭の馬を縄で繋いで千切れるまで引っ張るんだね」

「痛そうだから嫌だなぁ」

「そっか、じゃあ仕方ないね。別の方法ってある?」

「さあ、僕には分からないな」

「あたしも分からない。じゃあ、罰せないね」


 淡泊に言うと、少年は眉尻を下げた。


「そうだね。それもそれで困ったな」

「どうして困るの?」

「君を泣かせてしまったんだ。僕は君が大好きなのにね、とっても酷いことをしてしまった」


 「ごめんね」と少年は悲しそうに言う。

 何に対して謝っているのか分からない彼女は、緩く瞬きして頷く。
 それでは駄目だったようだ。少年は更に悲しそうな顔をした。

 つきり。

 つきり。

 つきり。


「……あれ?」

「どうかしたかい?」

「心臓に何かが刺さっているようなの。困ったな、病気かな。医者に行かなきゃいけないね。医者って何だっけ?」

「……そうだね、病気かもしれないね」


 そっと少年が手を伸ばす。
 彼女の頬――――否、目元を拭って、そっと抱き寄せる。
 彼女は軽く目を見張った。


「あれれ、おかしいよ。胸が痛くなくなったんだ。そっか、君が医者なんだね。あたしは運が良かったんだ」

「それは嬉しいな。でも、あの痛みも僕の所為だと思うよ」

「君があたしの心臓を刺していたのかい? そんなまさか、君の両手は今まで下を向いていたし、何も持っていなかったじゃない」

「見えない針を僕は君に沢山刺してしまったんだよ」

「えっ、それは大変だ。早く胸を開いて出してもらわなきゃ死んでしまう。……どうやって開けば良いんだろう」


 彼女の背中を撫でつつ、少年はまた謝罪を口にする。


「針を刺したことを謝っているんだね」

「そうなるね。でも、これだけじゃ足りないんだ。あの時の僕の勝手で下らない嘘は君をあんなにも辛い目に遭わせて、あんなにも狂わせて、後戻り出来ないところに追いやってしまった。このまま聞いていてくれないかな」

「わあ、何を聞かせてくれるの?」

「馬鹿な男の馬鹿な話だよ」

「それはとても楽しみだね」


 少年は、泣きそうな顔をした。



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