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 関羽が金眼に振り払われた瞬間、幽谷はしなやかな体躯に踵を叩きつけた。よろめいたそれに足を付いて跳躍し、距離を取って着地する。
 後退すると金眼は忌々しそうに襲いかかる者達を振り払い、幽谷の襲いかかる。彼にとって脅威と取られているのは未だ幽谷と、恒浪牙だけか。

 爪牙を以て彼女を引き裂こうとする彼へ横合いから恒浪牙が襲いかかった。

 幽谷は更に後退する。身構えて腰を低くすると、隣に趙雲が立った。大剣を構え金眼を間隙無く睨んだまま強ばった声音で問いかける。


「殺すのか」


 それに、幽谷は首を縦に振った。


「ですが、殺したところで残滓が残れば意味が無い。二度と姿を現さぬよう、残滓まで徹底的に消滅させなければなりません」

「出来るのか?」

「恒浪牙殿に手伝っていただきます。それに、この器には妙幻の力もある」


 何としても、消滅させます。
 関羽達の未来の為に。
 幽谷はちらりと襲撃の機を窺う関羽と張飛を一瞥し、駆け出した。

 狼牙棒で金眼を殴りつけた恒浪牙が右に退いたところを通り過ぎ脇腹に向けて白刃を飛ばす。

 咆哮。
 避けられる筈もない至近距離の刃を受け、凄まじい腐臭を放つ鮮血が噴き出す。幽谷の身体にかかりかけたのを恒浪牙が腕を引いて強引に離す。


「昔よりもくっさい血をしてますね、あの化け猫」


 ぶしゅ、ぶしゅ、と脈に合わせて血を溢れさせる傷を庇うように、金眼は身体の向きを変える。襲いかかった張飛や関定を前足で叩き落とすも、傷に響いて身体を一瞬強ばらせる。

 そこへ、曹操と関羽が左右から同時に切りかかった。
 関羽の攻撃は避けられたものの曹操の剣は浅く皮膚を裂く。
 さして深い傷ではなかった。

 だのに、先程以上の悲鳴を金眼は上げた。
 彼の剣に負荷された浄化の力の所為だと、やや遅れて気が付いた。
 幽谷の双肩を掴んだままの恒浪牙を見上げると、「まさかここで活躍するとは」と言葉とは裏腹にしたり顔で言う。

 この地仙は、一体何を考えているのか、さっぱりだ。
 彼の思考が全く読めないが故に、まさかこうなることを予期していたのではないかなどと変に勘ぐってしまう。……いや、如何に地仙と言えどさすがにそんなことは無いのだろう……と思う。


「恒浪牙殿。金眼の身体はまだ……」

「ええ。まだ完全ではないですね。それに良い具合に傷つけられてますから、更に不安定になっていることでしょう」

「そうですか。……それは良いですがとても良い笑顔を浮かべられるのは止めて下さい」

「おっと失礼。少々昔に戻りつつあるようで」

「……」


 幽谷は嘆息した。

 と、その時だ。
 不意に誰かに腕を引かれて恒浪牙から引き剥がされた。

 と同時に金眼がこちらに襲いかかり、手を引かれる形でその場を離れる。
 幽谷の手を引くのは夏侯惇だ。
 これは……金眼の攻撃を回避させてくれた……と取って良いのだろうか。

 取り残された恒浪牙を見やれば、彼もちゃんと回避していて、曹操に夏侯惇を指差しながら何かを言っている。……ああ、何か言い返されて首を傾げた。そうしながら金眼に手を向けて仙術で金眼の注意を自分達の方へと引きつけた。


「お前達を見ていると真面目にやっている気がしない」

「それは、偏(ひとえ)に恒浪牙殿の所為では……」

「呑まれているお前も同類だ」


 理不尽である。
 恒浪牙と同類にされるのは非常に不愉快だった。それに、呑まれていた訳ではない。決して。

 幽谷が反論しようとすると、間にずいっと趙雲が入ってきた。少々乱暴に夏侯惇の手を幽谷の手から剥がした。


「なっ」

「幽谷、一つ訊かせてもらいたいんだが、良いだろうか」

「え? ええ……」


 鳥肌が立ちかけたものの、趙雲が恒浪牙に襲いかかる金眼を睨みながら、問いをかけた。


「やはり、金眼の血を浴びない方が良いのだろうか」

「一応は気を付けていただいた方がよろしいかと存じますが、仮に浴びたとしても大量でなければ問題にはなりません。……臭い以外は」


 あれは、キツい。ともすれば集中力を殺がれる程の異臭だった。
 今でも鼻腔にこびり付く臭いに顔をしかめると、趙雲は苦笑してすぐに顔を引き締めた。


「分かった。張飛にもそう言っておこう」

「張飛様が浴びられたのですか」

「ああ。と言ってもごく微量だ。臭いが異様だったから、関定が毒素か何か含まれているのではないかと疑ったんだ」


 毒……は含まれていないと思う。
 含まれているのならば劉光との戦いのさなかでも取り沙汰された筈だ。なのに恒浪牙が何も言わないのはその事実が無かったからに他なら無い。
 それを言うと、趙雲は安堵した風情で頷き駆け出した。金眼の動向を窺いつつ張飛と、その側で腕を押さえる関定のもとへ行く。

 途端、夏侯惇が舌打ちした。


「……何か?」

「…………何でもない」


 不機嫌そうな姿に、首を傾ける。
 だがそれを指摘することはせずに金眼へと肉迫した。
 白刃を飛ばして背後から急襲すれば、恒浪牙達に翻弄されていた金眼は回避が遅れ、再び濃密な腐臭が鼻腔を突いた。赤が幽谷の身体を染め上げる。


「幽谷!」


 関羽の隣まで退がれば、関羽が慌てて己の服で血を拭き取ろうとする。
 それをやんわりと拒んで幽谷は毛を逆立てて唸る金眼を睨め上げる。

 真っ赤に染まった白い体躯は、金眼を着実に追い詰めていることを如実に表してくれた。
 後少し、後少し。
 後少しで、終わらせられる。
 ならば――――。

 幽谷は関羽を呼んだ。


「ここへ来たことに関したことは小言を言いたいところですが、時間がありません。金眼が肉体を完成させる前に片付けます。その為にあなた方の力を拝借致しますが、私はあなた方を守れません。危ないと感じられましたら足手まといになる前に即座に逃げて下さい」

「……分かったわ。だけど、幽谷も無理はしないで」


 幽谷は、それには答えなかった。



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