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「か、夏侯、惇殿……」


 どうして、と途中で声が出なくなる。掠れた問いは彼の耳に届くことは無かった。

 右手の手首をそっと撫でる。そこにはもう翡翠の腕輪は無かった。何時失われたのか分からないが、恐らくは妙幻覚醒の折に捨てられてしまったのだろう。
 それがどうして夏侯惇の腕にはまっているのか……。

 幽谷は立ち上がろうとして、恒浪牙に止められてしまった。


「本当にもう……人間って扱い辛いですねぇ」

「あ、あの……」

「来てしまったものは仕方ないのですから、このままあなたが回復するまで手伝ってもらいましょう」


 何処か諦めたように苦笑を浮かべる恒浪牙は、夏侯惇を呼んた。
 ……どうしてだろうか、彼は、諦めの中に安堵しているように見える。何に安心したのだろうか。


「そう言う訳ですので、これから先怪我しても文句は言わないで下さいよ。勝手に飛び込んできたんですからね」


 恒浪牙は、狼牙棒を地面に置いて幽谷に手を翳した。
 何事かを詠唱して掌から温かな光を放ち出す。先刻、幽谷の負った傷に当てた光と同一のものだった。
 全身を包み込んだそれは以前のそれよりも熱く、患部をじりじりと焦がすように癒していく。下薬も手伝ってか、急速な治癒は耐え難い痒みを引き起こす。
 掻きむしりたくなるのを堪えて傷が完全に癒されるのを待つ。

 その間にちらりと夏侯惇を見やると、彼はいつの間にかそこにはいなかった。
 金眼のもとへ肉迫し、関羽達と連携して時間稼ぎをする。

 ああ、こうなることが嫌で、恒浪牙に結界を張ってもらったのに。
 恒浪牙が壊しやすい結界を? いや、考えられない。彼だって、この事態を早く終わらせたい筈なのだ。長引かせるようなことはきっとしない。
 では、どうやって結界を解いた?

 問うように恒浪牙を見上げると、彼は目を細めて微笑むだけ。そこに何かの含みを認め、胸中に引っかかりを感じた。

 治癒が完了して恒浪牙が両手を下ろすのと同時に幽谷は立ち上がって彼の袖を掴んだ。


「……あの、」

「まあ、……あなたもあなたの知らないところで深く愛されているってことですよ」


 意味深長に、猫族達と共に金眼と精一杯の攻防を繰り広げる夏侯惇の手を追いかける恒浪牙は、ふと後方を見やり、肩をすくめて見せた。
 誰かに見せつけるような仕種に幽谷も振り返る。そしてあっと声を漏らした。


「曹操、殿……それに、趙雲殿、夏侯淵殿まで」


 幽谷の状態を確認した夏侯淵は曹操に拱手し、弓を携えて駆け出した。向かう先は勿論金眼の方である。


「いやぁ、何か滅茶苦茶なことになってますねぇ」

「やけに嬉しげだな」

「ははは、気の所為でしょう」


 ……まさか本当に容易く壊れてしまう結界を張ったのか。
 きっと睨みつけて胸座を掴むと、恒浪牙は両手を挙げて焦ったように弁明する。


「違いますよ。あなたに言われた通りちゃんと結界は張ってました。ただ予想外なことに夏侯惇が幽谷の腕輪を持っていたってだけで」

「まさか、私の知らぬところであの腕輪に術を掛けていたのでは……」

「そこまでする余裕ある訳ないじゃないですかー。私は節々痛む老い耄(ぼ)れなんですから」


 困り果てた笑みで強く訴えるが、狼牙棒を軽々と振り回し屈強な将よりも凄まじい武力を披露する彼を老い耄れだとは思えない。いや、思いたくない。
 幽谷は無言で襟を締め上げた。首を絞めたって、こいつは死なない。そんな確信があって。

 しかし、それを呆れた風情の曹操が止める。


「趙雲、お前も先に行け。……この地仙に付き合うと、状況を見失うぞ」

「……分かった。恒浪牙殿、幽谷をよろしく頼みます」

「ああ、大丈夫。多分後少ししたら彼女も行くと思いますから」


 襟を絞め上げる腕をやんわりと解き、朗らかに見送る恒浪牙に、趙雲に常日頃抱く苛立ちとよく似た感情が神経を逆撫でした。
 今度は拳を握って、その打って変わってへらへらと気の抜けた笑みを浮かべる恒浪牙の整った顔を殴りつけようと後ろへ持って行った。

 その手を、曹操が掴んで引き留めた。


「状況を考えろ。……二人共」

「状況を考えていないのは彼だけです」

「……とにかく、いつまで金眼を関羽達だけに任せているつもりだ」


 いい加減にしろ、とまるで喧嘩をした子供を叱りつけるように言って、曹操は金眼を見やった。
 その姿を見ると、禍々しい姿に自然と気が引き締められる。

 幽谷は恒浪牙を眄睨(べんげい)して足を踏みつけた。悲鳴が上がるのを黙殺して大股に歩き出す。

 その背を見送りながら、恒浪牙は踏まれた足をぶらぶらと振って痛みを振り払おうとする。

 涙までうっすらと浮かべた彼に、曹操は小さく嘆息した。


「……恒浪牙。お前は本当によく空気を壊すな」

「でも、あの子には大切なことですよ。あの子は今背負い過ぎていますから」


 まるでこうなって良かったと言わんばかりの風情に、曹操は片目を眇めた。


「こうなることを、望んでいたか」

「さあ、どうでしょう」


 恒浪牙は掴めぬ笑みのまま、狼牙棒を拾い上げた。


「さて、さっさと終わらせましょう。曹操殿。私は砂嵐の様子だけでも確認しておきたいのですよ」



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