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誰かが、夏侯惇にやかましく訴える。
このまま二人を行かせてはならない。止めろ、早く行け、と頭の片隅から呼びかけてくる。
虫の知らせという奴だろうか、ざわざわと胸がざわめいて不安が膨れ上がっていく。
つ、とこめかみから顎へと汗が伝い落ちて行く。嫌な汗だ。余計に不安が煽られた。
何か良くないことが起こる?
……何故?
幽谷の傍には恒浪牙もいる。幽谷が上手く立ち回れずとも恒浪牙が補助する筈だ。それなら何も案じるようなことにはならない。
それなのにどうして自分に行けと、誰かが訴える?
声の主を捉えようとすればそれを厭うように声は聞こえなくなる。止めればまた聞こえてくる。自分の頭の中で鼬(いたち)ごっこする。自分の中でのことであるのに、捉えきれない。
額を押さえて眉根を寄せると、ふと関羽達がざわめいた。
誰かが封蘭と、驚いたように漏らすと同時に、頭の中で何かが失せていくような感覚。あれ程にしつこかった声が、ぱたりと途絶えた。
封蘭は、劉備によって気絶させられていた。
それが今になって目覚めたのかと視線を関羽達の方へ向けた夏侯惇は、ぎょっと目を剥いた。
――――真っ白だ。
夏侯惇は清らかな色彩に変じた封蘭をまじまじと見つめた。
髪も、肌理(きめ)の細かい肌も、白磁のように白かった。黒と金の双眸も、今や金一色だ。
悲しげに眉目の歪んだ顔かたちこそ封蘭のままだが、まるで別人のようになっていた。
封蘭はふらりふらりと危なげな足取りで歩く。夢遊病の如く虚ろな双眸は金眼へと立ち向かう幽谷達に向けられている。
「……」
「封蘭? その髪はどうしたんだ、一体……」
「……くは、」
趙雲が駆け寄って身体を支えようとすると、封蘭が声を漏らす。掠れたそれは聞き取れなかったが、封蘭の声にしては低かった。
封蘭は趙雲を見上げ、今度ははっきりと告げた。瞳はもう虚ろでなく、趙雲を真っ直ぐに見つめていた。
「……僕は、封蘭じゃあないよ。封蘭はまだ寝てる。ごめんね。勝手に借りちゃった。ああ、ちなみに僕は男なんだ。だから、声が低くなってしまっているけれど、気持ち悪いとか思わないでよー」
その口調は封蘭のもの。
だが、声も表情も全く違っている。
封蘭の姿をしたその人物は夏侯惇を一瞥すると、すっと幽谷達を指差した。金眼を離そうとしているのか、金眼に攻撃する彼らは先程よりもずっと遠くにいた。
「あのお姉さん達を早く止めた方が良い。でないと、彼女と君達はとても悲しいことになるよ。今ならまだ、間に合う」
「な……」
「君達は幽谷のお姉さんが大好きなんでしょ? じゃあ、君達にとって良い未来を掴まないとね」
にっこりと、屈託無く笑う彼は夏侯惇へと何かを投げ渡す。
反射的に受け取ったそれは、腕輪だ。幽谷が手首に付けていた傷だらけの翡翠の腕輪。多分、何処かで落としていたのだろう。
これで何をしろと言うのかと彼に視線を戻すと、
「さっきからずっと言ってたのに、お兄さんってば全然気付いてくれなかっただろ」
拗ねたように唇を尖らせ、もう一度「まだ間に合うよ」と促す。
そこに、関羽が恐る恐ると言った体で彼に声をかけた。
「あなたは誰なの? どうして封蘭の身体を使ってわたし達にそんなことを……」
彼はくるりと軽やかに関羽に向き直り切なげに笑った。首を傾け、目を細める。
「僕は、劉珂(りゅうか)。一応は、君達の先祖、ということになるんだろうね」
「劉、珂……」
「うん。ああ、いやでも、封蘭をこんな風にした張本人って言った方が分かりやすいかー」
「……つまり、封蘭と親しかった劉一族の……」
趙雲の確かめるような言葉に、彼――――劉珂は大きく頷いた。
けれどもそれ以上自分のことについての追求をさせず、関羽達も促した。
「正体以外に僕なんかのことを知る必要は無いだろ。僕がどうやってここにいるのか知っても何の得にもなりはしない。それよりも時間を無駄にしては駄目だ。早く行けってば」
君が知るべきなのに知らないことが、永久に分からずに闇に棄てられてしまうよ。
夏侯惇を見据え、劉珂は言う。
何故自分を見てなのかは分からない。が、彼が優先的に行動を求めているのは誰でもなく自分だ。
夏侯惇は翡翠の腕輪を見下ろし、ぎゅっと握り締めた。懐に入れようとして上手く行かず、面倒になって自分の腕にはめる。
剣をしっかりと握って曹操に視線で許可を求めると、すぐに頷きが返ってきた。
直後に駆け出せば、やや遅れて関羽達が隣に並んだ。
彼らを一瞥した夏侯惇は前に視線を戻し――――不意に違和感を覚えて立ち止まる。
「止まれ!」
「え!? なん――――でぇえっ!?」
止まりきれなかった関定が何かにぶつかる。夏侯惇の方を見ていた為に顔の側面をぶつけて悶絶しながらその場に座り込んだ。
だが、彼の前には何もない。
壁のような物にぶつかったのは確かなのに……。
夏侯惇は用心深く手を伸ばし、指先に触れた物に隻眼を見開いた。掌を当てると、強固な壁がある。
このようなことをしたのは、恒浪牙か。
恐らくは自分達が介入しない為に設置しておいたのだろう。横にどれだけ長く延びているか分からないから、遠回りしていくことは時間の無駄だ。
壊せないものかと、拳で軽く叩いてみる。
と。
バリン。
割れるような音がして、拳が透明な壁を通過した。
えっとなって腕を伸ばすと、手は何にも当たらない。通過しても同じだった。
「今のは……」
「え、何したんだよお前」
張飛の問いに、夏侯惇は己の拳を見下ろす。
別にただ叩いただけだ。関定が豪快にぶつうかった壁だから壊れないだろうと叩いた筈なのに、ああも容易く壊れるなんて、誰が予想し得ただろうか。
関定と自分、何の違いが……。
「夏侯惇、あなたさっき、腕輪がある手で叩かなかった?」
「……ああ、そうだが」
……まさか、これが?
関羽の指摘に夏侯惇は翡翠の腕輪を見下ろし、眉根を寄せた。
ただの古びた装飾品でしかないと思っていたのだが、違うのか。
腕輪を撫で、夏侯惇は幽谷達を睨むように強く見据えた。
剣を握り直し、駆け出す――――。
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