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金眼の意識の力を否応無しに取り込んだ幽谷は、重力に従って落下する。
陰の気が妙幻の聖なる力とせめぎ合い、内蔵を、精神を容赦なく犯す。痛みは無い。が、自由がことごとく奪われていった。
まともに受け身を取ることが出来ずに地面にべしゃりと倒れ込んだ彼女はすぐに身体を起こして恒浪牙を呼んだ。筋肉がひきつって上手く言えなかった。
「は、やく!!」
「はいはい――――っと」
恒浪牙は跳躍一つで幽谷の前に立った。屈み込み、真摯な顔で覗き込んでくる。
「……酷い顔をしていますね。本当にこれで良かったのですか」
言葉を返そうとすると、恒浪牙が手を翳し、何事か言う。
すると身体が軽くなって、自由が戻るのだ。傷も幾分か癒された。
「あ……ありがとうございます」
「このような終わり方は、犀華殿も納得されないのではありませんか」
「……詫びは、出来ませんね。けれど私は後悔はしません」
苦笑を滲ませて首を僅かに傾けると、恒浪牙は目を伏せて立ち上がった。両腕を幽谷に向けて突き出す。普段の姿からは予想も出来ないような厳かな声で詠唱を始めた。
ややあって、幽谷の周囲に円を幾つも連ねた文様が浮かび上がり、光の粒子が上へ上へと舞い上がった。それらは幽谷の身体に張り付いては浸透していった。
痛みが、感覚が消えていく。地面に座っている感触も分からなくなった。
幽谷は目を細めた。ああ、ようやく終わるのだと、達成感と安堵感が胸の内で広がる。
恒浪牙は不服そうな顔だった。手早く片付いたと言うのに、何か不満があるのだろうか。
光が収まると、身体が前に傾いだ。恒浪牙がすかさず支えて仰向けにしてくれた。
その感触すら分からない。耳も、目も、しっかり機能しているのに、奇異なことだ。恒浪牙の温情だろうか。
恒浪牙が労るように額を撫でる。
「気分はどうです? 不快ではありませんか」
「……感触が無いので、少々、おかしな感覚です。上手く話せるのも、奇異ですね」
そう答えると、恒浪牙は眦を下げて微笑む。
「すぐに、筋肉は動かなくなり、意識も薄くなります。そうなればあなたは死にます。本当に、それで良いんですね」
「何度訊ねるつもりです?」
何度確認されても、幽谷の意志が変わることは無い。
恒浪牙は嘆息し、指を鳴らした。直後、陶器が割れたような音が彼方に聞こえた。
「まだ時間があります。関羽さん達と別れの挨拶くらいはして行きなさい」
「……ありがとうございます」
恒浪牙は幽谷の上体を起こすと、こちらにひたに走ってくる者達に片手を上げた。
先頭を走っていたのは関羽だ。泣きそうに顔を歪めていた。そんな顔をして欲しくないのだけれど、優しい彼女のことだ、無理もない。
関羽は幽谷の前に至ると座り込んで右手を握ってきた。大事そうに握って謝罪を繰り返す。……ああ、泣いてしまった。
その間に、恒浪牙が幽谷の身体を夏侯惇に預けた。だが、その感触すら分からない。
「……関羽様。何を謝っておられるのか、分かりかねます」
「ごめんなさい。わたしは、幽谷を信じられなかった。あなたを一杯傷つけた。あなたはいつもわたしのことを考えていてくれたのに。わたしは甘えてばかりで、自分のことばっかりかまけて……あなたの追い詰めたのはわたしだわ」
手を伸ばそうとするが、動かない。ああ、手足は動かせないのか。
表情筋も上手く動かせなくて、無表情。別れを告げるには不便な身体だった。
「関羽。一つ、訊いても良いかしら」
「……え?」
敢えて、口調を砕けさせて語りかける。
関羽は顔を上げ幽谷と目を合わせた。
「私は……今は、《人》なのかしら」
関羽と共にいるのは、元々はその為だった。
関羽と共に人間になっていく。
それが果たせていたのなら、もう――――。
関羽は沈黙し、俯いた。
暫くすると顔を上げて幽谷を睨んだ。
「……いいえ。まだよ」
「おい関羽! お前何てことを……」
「まだなの! だから……だから、」
まだ逝かないで。
涙混じりの声は掠れて弱々しかった。
幽谷は「……そうですか」と、消沈して呟く。
「それは、とても残念です。心残りが出来てしまったわね」
「そんなことを……っ」
「……幽谷」
関羽の肩を抱くようにして、劉備が屈み込む。疲れ切った彼もまた、泣きそうだ。
幽谷はそれに笑みを浮かべようとするがやはり表情筋は微動すらしなかった。
「ああ、劉備様。お気付きになられましたか。手荒な真似をしてしまって、申し訳ございません。ですがもう、あなたが苦しまれることはありません。あとは、あなたに誰にも無い特別な力があることを自覚なされるだけです」
「……ごめん。本当に、ごめん」
「関羽様も、劉備様も。私は、謝られるようなことをされた覚えはありませんよ。おかしなことを仰いますな」
笑顔になれない分、声だけは穏やかに努めた。
劉備が幽谷の頬を撫でた。
「けれど……僕が邪悪に囚われたばかりに」
「そんなことはありません。もう、だいじょ――――」
直後、視界が真っ暗に染まる。
途中で口を噤んだ幽谷に、夏侯惇が訝った。
「幽谷? どうした」
「……視界が閉ざされました。それだけです」
視覚の次は、聴覚だろうか。
失われていく感覚が、着実に消失の時へと近付けていく。
だが不思議と終焉が恐ろしくなかった。
きっと関羽達がいるからだ。見えないのに、感じないのに、何故だかそのことははっきりと感じられた。
これが安息なのだろうと半ば強引に結論づけて、幽谷は声だけで笑った。
「どうしたの?」
「……ふふ」
何だか、関羽の声が遠い。
自分が遠退いているのではない。耳が、衰えていっているのだ。
意識はまだはっきりとしているけれど、それもまた時間の問題だ。
終わりまでに、別れを告げなければ。
いいや、別れだけではない。これまでの感謝も、謝罪も――――色んなことを伝えたい。
曹操や趙雲にも、猫族のことを頼まなければならない。
夏侯惇にも……自分と恒浪牙の義妹砂嵐とは別人なのだと伝えてあげなければ。
「関羽、そして猫族の皆様も……今まで私をあなた方の傍に置いてくれてありがとうございました。それから、これから先あなた達を守って差し上げることが出来ず、申し訳ありません」
「そんなこと言うなよ……!」
「そうだぜ幽谷、オレ達仲間だろ? これからも一緒だろ? だからさ、恒浪牙さんにどうにかしてもらって、」
「ありがとうございます。あなた方に出会えたことで、すでに私の一生の幸運は尽きてしまっていたんですね。けれど、悪いとは思えません」
……いいや、違う。
こんな簡単な言葉では足りない。
もっと、もっと何か言わなければならない。
上手い言葉が浮かばない。どうやって伝えれば良いのか分からない。
「幽谷、そんなこと言わないで! お願いだから……幽谷!!」
「……おかしいですね。もっと何かを言いたいのに、言えません。良い言葉が見つからないんです」
考えておくべきでしたね。
冗談を言っても、関羽は叫び続ける。大きな声だろうに、小さなもののように思えた。
伝えなければならないのに。
恒浪牙が、折角時間を作ってくれたのに、これでは満足に生かせない。
どうしてこんな大切な時に、上手く言葉が出てこないのだろう。
もどかしい。
「待っ――――、――――いで!!」
……ああ、駄目だ。
何かを言っているのだけれど、認識できる音が小さすぎて、判別不可能だ。
意識も、段々と濁っているような気がする。
ねえ、待って。
まだ、伝えてないのよ。
伝えられていないことが、沢山、たくさん。
言いたいのに言えなかったことを、言わなければならないのに――――。
「――――? ――――!」
「――――!?」
「――――!」
「――――……」
……遮断。
駄目だ。
まだ。
まだ、私、は。
まだ。
嗚呼、
もう、
何も、考えられなくなる――――……。
……そういえば、ひすいのうでわはどこにいってしまったのかしら?
‡‡‡
反応を示さなくなった幽谷に、関羽達が叫ぶように呼びかける。
恒浪牙は彼らを見守りながら目を伏せた。
そこへ、夏侯淵が静かに歩み寄る。
「しきょ――――あいつは、どうなったんだ」
「死にました。そのように認識してあげて下さい」
幽谷は、偶発の自我であるし、死人の遺骨から形成された存在だ。人の子だとは言い難い。
この場合、在るべき状態に戻るだけ。
だが、恒浪牙は敢えて、幽谷にも、彼らにも死を告げる。
そして、動かなくなった幽谷の身体を丁寧に抱き上げて関羽達に一礼した。
「彼女の中には、金眼がいる。申し訳ありませんが、彼女の遺体は私が弔わせていただきます」
恒浪牙は、嘘をつく。
真実、彼が幽谷を弔うことは無い。
幽谷を人も入れぬ領域に封印するのだ。妙幻を身体のうちから出しても、四霊の器は封印のそれには申し分無い。恒浪牙が幾重にも封印を施せば、金眼は二度と日の目を見ることは無いだろう。
そして、恒浪牙が幽谷に頼まれたことはもう一つ。
「……さて、皆さん。私の最後の仕事です。私の目を見ていただけますか?」
「え……」
彼らが自分を見た瞬間、恒浪牙は《術》を発動させる。
ややあってそれぞれ身体を大きく震わせ、その場に力無く倒れ込む。
誰一人、起き上がることは無い。
これが、彼女の望んだ終焉の形。
「――――すみません」
これも、彼女の願いなのですよ。
恒浪牙は幽谷を見下ろし、目を細めた。
「……本当に、こんな終わり方であなたは良かったんですか?」
起きれば、皆さんはあなた達のことを忘れます。最初から、あなたは世界にいなかったことになる。
あなたを忘失した彼らに、あなたは永久の幸せを願うのですか?
静かに問いかけても彼女から応えが返ることは無かった。
「暫くは、あなたの足跡を辿らなければなりませんね。あなたや封蘭達の記憶や痕跡を完全に消し去る為に。ああ……砂嵐は大丈夫なのでしょうか」
彼はふと遠くを見た。
そこには、待機を命じられた兵士や未だ身動き出来ぬ兵士達が屯(たむろ)しているだけで、あの哀れな少女の姿を見出すことは出来ない。いや、もう彼女はいない。少し前に、用無しと消え去ってしまったのだった。
ゆっくりと歩き出した恒浪牙の姿が、ゆらりと揺らめく。
まるで陽炎のように歪んだ彼は、やがてその場から消えた。
その半瞬後に、兵士達もばたばたと倒れ出す。
暫くは、誰も起き上がらなかった。深い深い眠りにつき、偽りの夢を見る。そして記憶を完全に塗り替えられてしまうのだ。
沈黙する乾いた大地に伏せた者達を憐れむように、風が彼らの身体をそっと撫でた――――……。
―Bad End―
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