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幽谷は大妖を見上げ、目を細めた。
真っ白な獣の姿でありながら、なんと禍々しい。
妙幻の姿でなければこの厖大(ぼうだい)な邪気には耐えられなかっただろう。残虐な性格をしていても、妙幻はやはり四霊、応龍なのだ。
己の胸をそっと撫でて幽谷は金眼を見上げたまま深呼吸を一つ。
……劉備を《壊す》覚悟は出来ている。
金眼は長らく劉一族の中に息づいていた。幽谷がしようとしていることは言わば元々の劉備の破壊――――彼の一部を奪うこと。
結局、全ての劉備を同一と言いながら、金眼に囚われた劉備だけを否定しているのだった。
これが関羽なら、ひっくるめて受け入れようとするだろうけれど。
本当に、猫族の純粋さ、寛容さが羨ましい。
幽谷は自嘲するように口角を歪め、駆け出した。
「……はああぁぁ!」
爪を伸ばし、引き裂く。
避けられた。
金眼は尾を靡かせて軽々と回避する。
くわっと口を開き、咆哮する。
「何する者ぞ。我を金眼と知っての狼藉か!!」
「知っているからお前を殺そうとしているのだが、それに何か問題があるのか?」
声色低く、相手を威圧するように眦を決して挑発するように口角をつり上げる。これで匕首を持っていれば、と心の中でぼやく。
金眼を前にしても、さほど恐ろしくは感じられなかった。未だ不完全であるからか。
ならば今のうちに潰してしまおう。
「お前に我を殺せるものか。……我は今! ようやっと目覚めた。今こそ復活の時。再びこの大地は我に戦(おのの)くのだ!!」
「言いたいことはそれだけか?」
「……何?」
「下らぬ口上は良い。こちらはお前の腐れた性根など知っているのだ、今更聞いても猫が犬よろしく五月蠅く吠えているに過ぎぬ。お前如きが相手なら、さっさと終わらせたい」
金眼は不愉快そうに咽の奥で唸る。
幽谷が鼻で笑って顎を僅かに反らせた直後、金の目をかっと見開いた。
「ほざけ小娘ぇぇぇ!!」
右前足を振り上げ、幽谷に切りかかる。
それを今度は幽谷が軽々と回避した。何度か跳躍して恒浪牙の側まで距離を取る。
「……この姿で小娘と言われるとは思わなかったわ」
「ああ、それ私も思いますー。どう見てもケバい女なのに」
「妙幻は化粧をしていないようですが」
「いやですねぇ。言葉の文(あや)ですよ」
おどけたように肩をすくめ、恒浪牙は金眼を睨めつける。いつの間にか、狼牙棒が針の出し入れ出来ないものとなっている。彼もまた、金眼に本気で挑んでくれるようだった。
「さぁて……久し振りの妖猫退治、年甲斐も無く張り切ってしまいますね」
「……取り敢えず。機嫌が悪いのは分かりました。妙幻への苛立ちは金眼にお願いします」
「ええ。目一杯やっても後悔しなさそうなので思い切りやらせていただきます」
恒浪牙としては早くこの騒動を片付けて砂嵐の様子を見に行きたいのだろう。
幽谷は砂嵐の為にも、早々に決着をつけようと身構えて恒浪牙と共に駆け出した。
‡‡‡
右手に気を集中させて勢い良く薙げば軌道が白刃となりて金眼に肉迫する。
避けられても何度も何度も重ねて斬り付けた。実のところ、それ以外に妙幻の力を上手く振るえないのだ。妙幻の力を使う様を中で見ていたというのに、いざ表に出ると全く勝手が分からない。さしたる問題は今のところ見られないが、これは計算外だった。
無尽蔵に生み出される白刃のさなかに恒浪牙が隙を的確に突いて狼牙棒を縦横無尽に振るう。素早いが、一撃一撃は非常に重い。
それでも負けじと金眼も反撃をする。爪で薙いだ余波による鎌鼬(かまいたち)が幽谷や恒浪牙を襲い、深々とした裂傷を作った。幽谷はほとんどが肌なので傷も多かった。
刹那せつなの戦いは長引いた。
後ろで関羽達が幽谷を呼ぶのが聞こえる。無茶をするな、オレ達に助けを求めろという怒号の中に、《彼》の声もしっかりと聞き取れて、意志も堅くなる。――――何としても、彼らを守り抜きたいと。
そう思うと、逸る気持ちも自然と落ち着いた。
「っはああぁぁぁ!!」
「なっ」
幽谷は一瞬の隙を見て背後に回り、金眼の懐に潜り込んだ。
跳躍する金眼の毛を掴み、追い縋る。着地と同時に身体を地面に強く叩きつけられてしまう。呼吸が一瞬だけ詰まった。
金眼が動きを止める。考えるまでもなく恒浪牙が何か仕掛けてくれたのだ。
幽谷は小さく謝辞を口にし、金眼の心臓部分をしっかりと見据え、揃えた爪の先を肌に押し当て、後ろに引いた。
これで――――終わらせる!!
幽谷は渾身の力を込めてその生温かい肉塊の中央へ腕を突き刺した。ぶしゃりと噴き出した鮮血は腐った臭いがした。鼻が曲がりそうな程だ。
「ぐぅあ゛ああぁぁぁぁ―――――っ!!」
「く……!!」
絶叫は地面をも揺るがす。
幽谷はびりびりと身体が痺れるのに奥歯を噛み締め耐えた。心臓まで振動しているかのような感覚は少々の息苦しさを生じさせた。
それでも必死に腕を進ませる。
生々しい肉の感触に全身が震える。肩口まで入る。まだ足りない。
苦悶に暴れる金眼は前足を後ろへ掻いて幽谷を放そうとする。
だが、幽谷は構わず両足に力を込めて更に更に深く突き刺した。
そして、爪がその臓器に届く。念願の金眼の命の中枢。陰の核。
刺す!
「うああぅアあ゛あ゛あぁァああ゛アアぁあああっ!!」
ずぼっと腕を抜いて地面に倒れたのを恒浪牙が腕を掴んで引きずり出してくれた。
金眼が口から大量の血を滴らせ憎悪に染まった恐ろしい形相で幽谷を睨む。
咄嗟に、恒浪牙を押し飛ばして地面に倒れ込んだ。
直後。
「脆弱な……矮小な人間があぁぁっ!!」
金眼のあぎとが、目前に迫った。
‡‡‡
ずぶりと異物が何本も身体の内側に入ってくる。
幽谷は半瞬遅れてやってきた激痛に小さく呻いた。
金眼は憎悪に澱む金の目を細め、更に力を込めてくる。
道連れ――――否、障害の排除、か。
心臓を突き刺したとて、この大妖は滅しないと、端から分かっていたことだった。
この不完全な大妖は肉体を完全に構築していないからこそ、力と意識そのものを、形成されぬまま破壊された器から逃し、龍脈へと戻すことが出来る。そうすれば、また時間がかかるが誰に邪魔されること無く復活を果たせる。
金眼はそれを分かっているからこそ、邪魔になる幽谷を殺しそうとしているのだった。
無駄な足掻きだ。幽谷が死んでも恒浪牙がいると言うのに。彼からは簡単に逃れられると思っているのだろうか。……いや、きっと前回倒された時、ろくな働きをしなかったのだろう。
幽谷は舌打ちし、手を金眼の片目に突き刺した。
弱まった瞬間に口をこじ開けて口内に向けて白刃を見舞う。尻餅をついた。後ろで関羽の声がして、遠退きかけた意識が引き戻される。
「大丈夫ですか?」
「ええ。まだ保ちます。心臓には至っていませんから」
恒浪牙に助け起こされながら、金眼を見る。直後、何度目かの咆哮。
ぎりぎり保っていた身体が急速に朽ちていく。幽谷の先程の攻撃で耐えきれなくなってしまったのだ。
咆哮が掠れて消えると、砂塵と化す巨躯の心臓部分から黒と白が不気味に混ざり合う球体が飛び出した。
陰の気の塊。その中には、未だ金眼が息づいている。
あれを何とかしなければどうにもならない。でなければ、またいつか同じことが繰り返されてしまう。
幽谷は恒浪牙の腕を離れ駆け出した。痛みが邪魔をするが、構わずに走る。
逃げようとする金眼の残滓に追い縋り跳躍する。逃がさない。逃がしてなるものか。幽谷の執念が、身体に鞭を打つ。たかだか激痛に動きを鈍らせるなんてあってはならぬ。猫族や人間達の為にも、ここで金眼をしっかりと滅しておかなければ!
離れようとしたそれを抱き締めるように捕まえて囁く。
「逃れられると思うな。お前は永遠に眠るの」
――――私と共に。
口角を歪め、己の心臓に押し込んだ。
これで、終わりだ。
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