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 冷たい夜風に血臭が混じる。
 そこには曹操と自分以外、誰もいなかった。

 強いて言うならば、つい先程までは関羽と張飛もいた。この動かない肉塊も意思を持って夢を高らかに語っていた。
 幽谷はもう動かなくなってしまった張角の頭を撫で目を細めた。
 金色の双眸に、もう憎悪も驚愕も無い。生気すらも、無い。


「……」


 僅かに漏らした吐息は夜陰に溶け込んでいく。

 関羽と張飛は先に帰らせた。
 だが、多分何処かで泣いているだろう。
 それを思うと、胸が痛んだ。


「早くしろ。私は暇ではないのだ」

「……分かっています。邪魔ですので、離れていて下さいまし」


 睨むように曹操を見上げると、彼は鼻で笑って二歩程後退した。

 それを見届けて幽谷は匕首を構える。


「……張角殿、どうかお許し下さい」


 張角に謝罪する。
 耳を切り落とすつもりはなかった。

 耳を切り落とさずに関羽達を守る方法。
 彼女には《それ》しか思い付かなかった。


「参ります」


 幽谷が目を細めた直後。

 それは一瞬だった。

 瞬きの内に張角であった者は千々に引き裂かれ、耳すらも鼻すらも眼球すらも、原形を止めなくなってしまった。
 唯一形を残したのは、張角の腕だけ。

 幽谷は身体をべったりと血に染めて、その腕を曹操に差し出した。

 曹操はその秀麗な顔に驚きを滲ませ、幽谷を凝視している。

 幽谷は顔色一つ変えなかった。色違いの目で、曹操を真っ直ぐに見つめている。


「申し訳ございません。手加減を間違えてしまいました。辛うじて腕だけは残りましたが、これでも証明になるでしょうか」

「……」


 なかなか受け取らない曹操に焦れて、幽谷は無理矢理握らせる。


「では、私にはこれにて失礼いたします。くれぐれも、彼の素性につきましてはご内密にお願いいたします」

「お前は……何だ?」


 今のは、人に為せる業ではない。

 四凶の娘、幽谷。
 生まれてすぐに殺すのが慣習である為に、その存在について詳細を知る者はいない。曹操も、成長した四凶を見るのは彼女が初めてだ。
 夏侯惇の話では、猫族の村で彼程の者が気配を察することが出来ず、背後を取られてしまったらしい。その際何か細長い紙が口元から落ちていたそうだ。
 細長い紙とは恐らくは札だ。だがそうだとすれば彼女は多少なりとも方術の心得があるということになる。

 死体を一瞬で微塵にした武力。
 方術らしき札。
 それも、四凶の力なのか……?

 得体が知れない。


 曹操は彼女に初めて恐れを抱く。警戒はすれどもこの女を恐ろしいと感じたことは無かったのに、彼女の底知れぬ何かを垣間見た途端、本能がこの者が危険であると警鐘を鳴らし出したのだ。


 幽谷は曹操の問いには答えなかった。ただ無言で頭を下げ、きびすを返す。

 曹操はいつまでもその背を、探るように見つめ続けた。


「あれの力……危ういが、旨く使えば役に立つか」


 それは虚勢だったのか、本心だったのか。
 彼の表情からは、窺い知れなかった。



‡‡‡




 幽谷が陣屋に戻ると、関羽達は世平達と一緒に戻ってきているようだった。
 目隠しをして彼らのもとに向かうと、幽谷の凄惨な姿に皆仰天した。

 元気の無い関羽達からは見えないように世平の前に立つ。


「幽谷!? お前、何だその格好は!?」

「返り血です」

「返り血って……そんなに殺したのか?」

「はい」


 何のてらいも無く首肯する幽谷に世平は絶句する。
 しかしふと、彼女の手を見て、眉尻を少しだけ下げた。


「……手が震えてるぞ」


 指摘すると、彼女は己の赤い手を見下ろし、こくりと頷いた。


「はい。恐らくは一時的なものでしょう。すぐ収まると思いますので、どうかお気になさらず」


 よくよく見れば、それは手だけに限ったものではなかった。肩も僅かに震えているのだ。
 手を伸ばそうとすれば、幽谷は避けた。


「私は、陣屋の外におります。出立なさる際は、お呼び下さい」


 幽谷は世平に頭を下げると、そこから逃げるように早足に歩き去っていった。
 その背が追うことを拒絶しているように見えて、世平は彼女に声をかけることすら、憚(はばか)られた。

 それに、追うにも蘇双が切羽詰まった様子で駆け寄ってきた為に、皆それどころではなくなってしまう。


「蘇双? どうしたんだ? そんなに慌てるなんて珍しいな」


 よくよく見れば、彼は腕を怪我していた。何かに斬り付けられたかのように――――。


「みんな……大変なんだ! 劉備様が連れていかれた!!」


 愕然とした。
 真っ先に反応したのは関羽だ。

 蘇双に詰め寄るように歩み寄り、語気荒く問い質(ただ)した。


「そんな!! どういうこと!?」

「誰に連れてかれたんだよ!」

「そ、曹操に! 都に、洛陽に連れていかれた!」


 猫族は騒然とする。
 猫族の長劉備を、曹操が人間の世での政の中心洛陽に連れていかれたのだ。

 世平は舌打ちする。

――――人質だ。
 劉備を連れていかれたら、猫族も追いかけない筈はない。
 曹操はこの戦いが終わっても、猫族を手放すつもりは無かったのだ。


「みんな、どうする……って聞くまでもねぇか」

「ええ。今すぐ曹操を追いかける! 都に、洛陽に向かいましょう!」

「劉備だけ曹操のとこ残して、オレたちだけ村に戻るなんてありえねーつーの!!」


 猫族は皆、力強く頷いた。
 人間だらけの都に行くのは、危険だ。
 だが、たった一人で無理矢理連れていかれた劉備は、もっと危険で、さぞ心寂しいだろう。

 あの無垢な少年を助けなければ。
 愛らしい彼は、猫族の宝なのだから。


「俺は幽谷を呼んでくる」

「あっ、世平おじさん! 幽谷ならわたしが行ってくるわ」


 はっとしたように関羽が世平を呼び止めた。

 世平は足を止め、関羽を振り返る。


「しかし……今の幽谷に会えるか?」

「手が震えてたって、おじさん言っていたでしょう? もしかしたら、幽谷は平気じゃないのかもって思ったの。だから」


 世平は目を細める。桑木村の辺りから、関羽が幽谷に怯えていたのは、すぐに分かった。それは幽谷も悟っていたようで、関羽に近付かないように気を付けていた。
 大丈夫なのか?
 もう一度問いかけると、関羽は頷く。


「……分かった。じゃあ、頼むぞ。俺たちは先に行ってるからな」

「ええ。すぐに合流するから!」


 関羽はくるりと身を翻して駆け出した。
 実際に見ていないけれど、もし世平の言ったように幽谷の手が震えていたのなら、関羽が思っているようなことは無いのかもしれない。
 むしろ幽谷が嫌だって感じているのなら――――。

 関羽は足をぐんと速めた。



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