B
力の加減を間違えてしまったことに、罪悪感を覚えた。
未だに起き上がれない劉備に近寄り、側に膝をついた幽谷は心の中で彼へと謝罪する。仕方がなかったとはいえ、もう少し上手く加減が出来ていればここまで苦しませることは無かった。
劉備の身体に手を翳し、仄かな光を発する。
それはたちまちのうちに彼の身体を薄く包み込み、浸透していった。
手を下ろせば劉備がその手を掴む。ゆっくりと顔を上げて、悲しげに幽谷を見上げてきた。
どうしてあんなことをしたの? と、視線で問いかけてくる彼から逃げるように、幽谷は手を剥がして離れた。
「恒浪牙殿」
呼んで、両の手をそれぞれ動かして見せる。
その仕種で言わんとしていることを理解してくれた彼は、やはり渋面を作った。己のしようとしていることがどれだけ無謀か、よく理解している。だが、妙幻の力を使えばそれも可能な筈だ。幽谷が表に出ていることで、恒浪牙の呪詛も効果を発揮しない。
目覚めて間も無い自分の、他人の力を使うその手腕に因(よ)る行為ではあれど、劉備を救う為の幽谷に出来る最大限の方法だった。それを確実にしたいから、恒浪牙に協力してもらいたかった。
だが、恒浪牙が返答する前に幽谷の腕を劉備が後ろから掴んだ。
振り返ると、何処か拗ねたような劉備が幽谷を見上げていた。身体はもう年相応なのに、心はまだ幾分か幼さを残しているのだろう。
「君も、関羽達みたいにそちら側の人間ばかり贔屓するんだね。悲しいよ」
「……劉備様。あなたは猫族が人と仲良く出来ることを、桑木村で私達に見せて下さったではありませんか。助けてと願ったあの少年を、あなたがお忘れなのですか」
淡々と問いかける。
劉備は顔を歪めた。まだ、覚えているようだ。そのことに、ほんの少しだけ安堵する。
「私は、誰よりも偏見無く、仲良く遊びたいと、ただそれだけの理由で桑木村の少年と仲良くなられた劉備様には感服致しました。……いえ、今でも、劉備様の純粋さには憧れすら抱きます。ですから私は、金眼に囚われたあなたの言葉を受け入れる訳にはいきません。――――よしや、全ての劉備様が同じ劉備様であるとしても」
《劉備そのもの》が嫌がりそうなことだから、受け入れられない。
今の彼は、一気に力を増した金眼に付け入られ心を侵され、金眼の望むように思考が傾倒しているだけなのだ。その根底にある純粋な願いは、三人の劉備共通なのに……。
金眼を取り除けば、そんなことはきっと言わなくなる。誰にだって持てやしない特別で大きな力を持っていることに気付かず、無力であると勘違いした劉備に戻るだろう。
彼を説教するのは、関羽達に任せよう。
「あなたは、関羽様や猫族の皆様を守りたいと願い、力を求めすぎて闇に溺れた。けれど闇に溺れずとも、あなたには誰にも持ち得ない偉大な力がありました。それは、猫族全てを勇気づけ、今に至るまで汚れた人の世で凛々しく在らせた。守る力よりも、救う力の方が、私は尊く思います。どうか――――いえ、早く、それに気付きなさい。あなたを闇に引き留める金眼(のろい)は私が全て請け負いますから」
「それって……」
幽谷は劉備の手を剥がし、両手でそっと包み込んだ。手の甲を撫で、優しく語りかける。
「……私は、猫族が大好きです。関羽様だけでなく、猫族の皆様には多大なるご恩を受けました。もう、返そうにも返せない程の、大恩です。その猫族の中には勿論劉備様もおられます」
私は、私の愛する猫族に戻したい。
これが、私に出来る限りの最上のご恩返しです。
幽谷は意を決して劉備の手を剥がすと、その心臓に重ねた両掌を押し付けた。そして、全身に力を込めて通力を一点に集中させる。
劉備は金眼に警告でもされたのか顔色を変えて幽谷の手を剥がそうと手首を掴んできた。狼狽の為か爪が幽谷の肌に深く深く突き刺さり、血を垂らす。
幽谷は手を見つめたまま、小さく、低く呟いた。
「劉備様から離れろ、穢れが」
‡‡‡
劉備の身体が前のめりに倒れてくる。
彼の身体を抱き留めて、地面にそうっと横たえた。
土気色の顔で眠る劉備の額を按撫した幽谷は目元を和ませて口元を弛めた。
「すぐに、済みますから」
目覚めれば全て、元の通りですよ。
一瞬だけ揺れた瞳には誰も気付かない。
けれども、幽谷の真意を知る恒浪牙だけが、責めるように悲しげに見つめてくる。
「本当によろしいのですか、幽谷」
「はい。どのみち私は消えるのですから。……封蘭も、あの状態では、もう、」
封蘭の横たわる方を見やり、痛ましげに目を伏せる。
彼女は精神的に追い詰められすぎた。劉備に女仙砂嵐を害されたこともある。きっともう、猫族とまともな話し合いをしようなどと思わないだろう。それだけの余裕が無いのだ。
それに、幽谷にも時間は残されていない。犀華の力が完全に消えてしまえば当然幽谷の意識も死滅する。
表に出ている、たったそれだけでも力は消費されていくのである。
ではあの時もっと待てば良かったのではないか、と心の中で指摘するものがあるが、あのまま劉備と猫族が、彼のことをあんなにも大事に思っていた関羽が戦う様を黙って見てはいられない。
幽谷は全てを振り切るようにかぶりを振り、《ソレ》を睨め上げた。
《ソレ》は真っ白で、澱んだ塊だった。
純白とは程遠い白い汚れ。本来の白ではない、人々の醜い感情から生じた陰の気より生まれた巨大なる妖猫。
その目がうっすらと開かれていく。爛々と狂気を宿した金色のまなこが幽谷と恒浪牙を捉えて細まった。
金眼が、幽谷の眼前でその姿を現したのである。
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