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 劉備の身体が地面を転がる。

 恒浪牙の前に立った妙幻は髪を掻き上げ、劉備を痛ましげに、申し訳なさそうに見ていた。彼女が、そのすらりとした足で劉備の脇腹を蹴りつけたのだった。
 恒浪牙と連携していたようにも思える妙幻の行動に――――いや、劉備をあのような目で見る彼女に、関羽は危うく得物を取り落としそうになった。あの温かな感情のこもった目を、妙幻はしていただろうか? いいや、していなかった。
 先刻の憎らしげな妙幻の憎らしげな形相が記憶に蘇る。今の彼女はあまりにも不自然だ。

 妙幻は身体を捻って恒浪牙を振り返ると、髪を鬱陶しそうに片手で束ねながら恒浪牙に小声で何事か言った。恒浪牙は頷いて懐から短刀を取り出して妙幻へと《にこやかに》手渡した。

 待って。これは、一体どういうこと?
 恒浪牙は妙幻と仲が悪いと認識していた。
 演技なのではないかと一瞬考えたが、すぐに自分で違うと否定する。だって、今までのことが全て演技による行動だったと言うことになる。到底演技では片付けられないだろう。

 そして一つだけ、可能性があることに気付い――――いや、思い出した。

 頼れない可能性であると頭の外に追いやっていた、最後の、本当に最後の切り札。

 関羽は唾を息と一緒に呑み込み、妙幻を凝視した。汗が、こめかみから顎へと伝い落ちた。
 ……まさか、本当に……?



 本 当 に 彼 女 が?



 妙幻は短刀を受け取ると束ねていた美しい髪を躊躇い無く切り落とした。肩の高さまでばっさりと。地面へと投げ捨て右腕を回したところで、また恒浪牙を振り返って何か確認を取っていた。
 拳を握ったり開いたりして彼に頷きかけると、恒浪牙の後ろの夏侯惇が立ち上がって恒浪牙を押し退けた。まるで死人を見たかのように驚愕していた。


「……っ、《幽谷》、戻ったのか!?」

「――――」


 ……嗚呼、嗚呼。
――――嗚呼!
 その名前に、胸の内から湧き上がるものがあった。目を見開き、総毛立ち、震え出す。

 妙幻は――――《彼女》は夏侯惇に拱手すると、ゆっくりと関羽へと向き直った。

 そうして、深々と頭を下げるのだ。

 声が出ない。
 可能性が、僅かな可能性が目の前に花開いた様に、歓喜して声が詰まってしまった。何を言えば良いのか……否、声の出し方すら分からなかった。
 出したいのは声なのに、目から別のものが大量に溢れ出す。止められない。

 顔を上げた彼女の表情は、視界が滲んでよく見えなかった。



‡‡‡




 感覚は少々鈍いが、些末な問題であった。力の加減を間違えやすいこと以外には、劉備を救うことに何の支障も無い。
 欲を言うなら、視界が前よりもうんと高いし胸が以前に比べてやや重いが、身体を作り替えることは不可能なので仕方がない。あの爬虫類の腕が人間のそれに戻っただけでも御の字だ。さすがにあの腕で戦うことは精神的にも肉体的にもやりづらいものがある。

 妙幻は――――いいや、幽谷は己の身体を見下ろし、細く吐息を漏らした。
 支配権を妙幻から完全に奪うまでの時間稼ぎを、呪詛で増幅された犀華の力を借りて恒浪牙に頼み込んだのが通じて良かった。


「状態が思わしくないのならば、まだ時間を稼ぎますが?」


 唐突な展開に追いついていないのだろう、固まっている夏侯惇を押し退けて、恒浪牙が狼牙棒を見せつけながら問いかける。
 幽谷はそれに首を左右に振った。
 そして突拍子も無く恒浪牙の腕を掴んで真横に引きずり込んだ。

 理由は、《彼》である。


「幽谷!」

「ちょっと幽谷。何で私を盾にするのかな」

「……すみません。無意識でした」


 恒浪牙を避けて趙雲は幽谷の肩を掴んでくる。幽谷の方が背が高いので、自然趙雲が見上げる形になっている。
 案じるような眼差しから、幽谷はゆっくりと視線を逸らす。この鳥肌が立つ感覚も、久方振りである。
 ……思えば、前回表に出た時自分は気が狂っていたのではないだろうかと今更ながら後悔を覚えた。


「幽谷、出てきて大丈夫なのか?」

「……ええ、まあ。一応は」

「こらこら幽谷。趙雲殿はあなたのことを心配なさっているのだからそんな態度はしてはいけないよ」

「どうしてあなたにそんなことを言われなければならないのですか」


 趙雲の手を払い退け、恒浪牙を冷たく辛辣に睨みつけると、恒浪牙は「私何か間違ったことを言ってしまいましたか?」と曹操に助けを求めるように問いかける。
 曹操は幽谷をばつが悪そうに一瞥し、未だ激痛から身を起こせないでいる劉備を見やって、そして何故か夏侯惇を見ながら一言。


「……取り敢えず、状況を考えろ」

「だ、そうです」

「あなたが言わないで下さ――――っ?」


 身体の脇に何かがぶつかった。腰に何かが巻き付いて締め付けてくる。
 視線を落とせばそれは猫の耳を持った娘で。

 じんわりと、胸の中に温かいものが満ちると同時に、深い安堵を得た。
 幽谷は躊躇うように手をさまよわせた。迷って下げようとすると、趙雲が手を取って関羽の頭に強引に乗せた。
 目元を和ませた趙雲に促されるままぎこちなく撫でると腕の力が強まって、関羽が顔を上げる。愛らしい顔が涙ぐんでいる様に胸が酷く痛んだ。
 幽谷は目を伏せ、小さく謝罪した。

 関羽は激しくかぶりを振って否とする。何かを言いたそうだけれど、口を開閉するだけで何も言わない。

 恒浪牙がやんわりと関羽を宥めて幽谷から放すと、背中を撫でながら曹操へと預けた。幽谷を振り返って「良いですね?」と。

 幽谷は即座に力強く頷いた。


「行きましょう。時間も、犀華殿が私に残して下さった力も、決して多くはありません」

「……っ、まっ、待って! わた、わたしも一緒に――――」


 偃月刀を握り締めて申し出てくれる関羽に、幽谷はしかし、


「いえ。今の私では関羽様達まで巻き込んで攻撃しかねませぬ故に」


 関羽は途端に落胆した。眦を下げて、申し訳なさそうに俯いてしまう。
 だが、力になろうとしてくれた関羽の気持ちは、過言でなく死ぬ程に嬉しかった。まだ、そのように気遣ってくれることが、何よりも有り難い。
 だから――――彼女らの為に《何でも》出来ると、そう思える。

 関羽と猫族、そして夏侯惇に拱手した幽谷は恒浪牙と頷き合って駆け出そうと前屈みになる。

 が――――何を思ったか夏侯惇が幽谷の腕を掴んだのだ。
 足を踏み込めなかった幽谷が不思議そうに振り返るとぱっと放して謝罪する。自分でも、己のしたことが疑問なようだった。


「あの……何か?」

「いや……すまない。身体が勝手に」

「左様でございますか。……では、」


 幽谷は夏侯惇に会釈し、先に駆け出した恒浪牙の後を追いかけた。



‡‡‡




「夏侯惇……? どうかしたのか」

「……あ、いえ……誰かが、『行かせるな』と言ったような気が……」


 それは、果たして誰の言葉だったのだろうか?



⇒BAD
⇒269頁〜 GOOD


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