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女が生まれた村は冀州の山間にひっそりと存在していた。
女は村付近で取れる上質な翡翠での細工を得手とし、村の外へ、街へ売りに行って生計を立てていた。師でもある母は病で目と心臓をそれぞれ患い、満足に生活することが出来ない。その為、家のあらゆることは全て女が担っていた。
女の作る細工は魔除けとしても非常に評判が良かった。彼女の腕を買って専属にならないかと高い身分の人間に誘われたこともある。だが、母が村にいたがることを考え、女はその全てを断っていた。
女の優れた部分は細工だけではなかった。
見目麗しく、気丈ながらに淑やかな女性らしさを備えてた。周囲への気配りを忘れない気だての良い女だった。
彼女を嫁にと望む男は村中にいた。
彼女を羨み妬む女は村中にいた。
そんな彼女の心を射止めたのは、偶さか村に立ち寄っていた旅人であった。
幽漕(ゆうそう)と名乗った旅人は女に様々な物語を語った。女は彼の話に聞き入り、自然と仕事の合間に旅人のもとを訪れるようになった。
女が旅人を愛すのに、そう時間はかからなかった。
彼が自分の夫になれば良い――――そんな願いは間を置かずにして叶えられる。
旅人と夫婦になって、女にとってこれ以上の幸せは無かった。これまでの苦労が報われたのだと言った母の言葉も、あながち嘘でもないような、そんな気がした。
されど女は石女(うまずめ)。
数年経っても子供には恵まれなかった。
どんなに欲しても、自分の身体では子供はなせない。
それが、女は悔しくて悔しくて仕方がなかった。女としての大事な役割が果たせないことが、辛かった。
されども母が亡くなった翌年に、その兆候は現れた。
腹が膨れるようになって、女は夫と共に歓喜した。これは僥倖だ――――否、神が与えてくれた幸せなのだと抱き合って天へ感謝した。
女は、何がなんでもこの子供は生む。そして立派に育て上げるのだと夫と亡き母の墓に誓う。
《どんな子供でも》愛せる自信があった。
だって、念願の子供なのだ。この子を逃せばこの先一生子供は産まれない、そんな強迫観念に襲われていた。
果たして――――産まれた子供は村全体どころか付近の村までをも揺るがす。
赤い瞳と青い瞳を持った赤子の左の脇に、目のような痣があった。
《四凶》
世に凶兆と疎まれた存在であった。
夫は女を怒鳴りつけた。それ程に強い衝撃を受けた。よもや自分の嫁が四凶を生むなど、信じられなかった。悪夢を見ているようだった。
しかし女は違っていた。
生まれた赤子を大事に抱き締めて笑んでいた。四凶だということは女にとってはどうでも良かった。その赤子は紛うこと無く自分と夫の子供。最初で最後のややこ。
育てなければと、母親としてと使命感が女に芽生えていた。
無論、それを夫は許さない。
即座に女から赤子を取り上げて殺そうとした。四凶は即座に殺せ、古から言われていることだった。
だが、女は夫に縋りついて赤子を取り返すと疲弊しきった身体で家を、村を飛び出した。
夫が追いかけてくるのを必死に逃げて、隠れた洞穴にて赤子に己の翡翠の腕輪を持たせた。裏に、赤子への言葉を刻みつけて。
その腕輪は母が女に一番最初にくれた贈り物だった。ずっとずっと肌身離さず身につけていた。命よりも大切なものだった。
それを最愛の娘に、託した。
そして見つけた一人の旅人に半ば強引に預けるのだ。どんなことになったとしても、生きていてくれれば良い。生きて、いつか幸せになってくれるのなら何も望まない。それだけで自分は十分だ。
だけど、それまで死ぬことは、この子を殺すことは何ぴとたりとも許さない。この子は生きるべきなのだ。
だって……私の大事な大事な娘なのだから。
旅人が了承して女と別れた後、夫が女を見つける。
女は掴みかかってきた夫を、岩を以て殴り殺した。何度も何度も岩を頭に叩きつけて、陥没させ、変形させた。
かつて深く深く愛した男を、忌み子を守る為だけに、撲殺した。
絶命した夫に、女は寄り添う。
そうして――――彼が手にしていた短刀で己の胸を貫いた。
『幽谷』と、誰かの名前を呟いて女の身体は夫の遺体に重なる。
‡‡‡
『いつまでそうしているのよ』
犀華の声がする。弱り切っていながら、呆れ返った声だ。
彼女に耳を傾ける。
『行きたいんでしょう? 助けなくてはいけないんでしょう?』
なら行けば良いじゃない。
行けない。
自分の意識は弱い。彼女を押し退けて支配権を奪うことは出来ない。だから、ここで口惜しく眺めていることしか出来ないのだ。
そのように伝えると、犀華は鼻で笑った。
『行けるわよ。行けるに決まってるじゃない。何の為にあたしが久し振りに力を使ったと思うのよ。それに、兄様だって……』
守りたいのなら行きなさいな。
頭を誰かに撫でられたような気がする。おかしな話だ、今は意識だけで姿は無いというのに。
『あたしはもう駄目だから、二度目は期待しないでよ』
今度は、背後に衝撃。
優しいそれは意識を押し出し、ゆっくり、ゆっくりと浮上させた。
さようなら、と犀華が呟いた直後に、視界が開ける。
『いってらっしゃい』
不意に聞こえた声は、誰のものだったのだろうか。犀華ではない、もっと落ち着いた年上の女性のそれだ。……何故だろうか、凄く、懐かしい?
《幽谷》の視界に入ったのは、緩やかに波打つ黒い髪と青い瞳の女性だった。
その右手には、翡翠の腕輪が填められている――――……。
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