36
憤懣(ふんまん)やるかたなしと言った風情の妙幻はしかし、膂力も、通力も振るえずに苛立ちばかりを募らせていった。
彼女の矜持はズタズタだ。何度も逆鱗に触られ、我を失い欠けている。
――――だからこそ、彼女は気付いていない。
犀煉が、己の身に何をしたのかを。
これは犀煉が作った好機だった。妙幻を殺し、封蘭と猫族が言葉を交わす時を稼ぐ為の。
「関羽さん! 曹操殿!!」
恒浪牙は二人の名を呼びつつ、右手を妙幻に向かって突き出した。
それに応じ、二人は同時に動いてくれた。妙幻へと突進した。
彼女の手前で関羽は跳躍し、上と下から得物を一閃する。
妙幻は辛くもこれを避けた。
だが、その後ろに夏侯惇が切りかかる。背中を切り上げた。夏侯惇相手だと、妙幻の反応は僅かに遅れた。
呆気なく優劣が覆る。
脅威を一つ潰せただけに過ぎないが、それでも恒浪牙の胸がほんの少しだけ軽くなる。
封蘭は未だ趙雲に拘束されたままだ。妙幻の名前を叫びながら必死に抵抗するが、趙雲はそれを何とか押さえ込んでいる。最弱とは言え、四霊としての膂力に趙雲が耐えられるのも時間の問題だろう。
今のうちに妙幻の首を跳ねて器を粉砕すれば――――。
「あまり、幽谷の身体を痛めつけるのは止めてもらえないかな」
その場に響いた声に、誰もが動きを止めた。
‡‡‡
敵兵士達の仙術による拘束が解かれ、それぞれが地面に座り込む。中には戦意を失い逃げ出す者達も多々見受けられた。
それを《彼》は興味無さそうに見送り、関羽達に向き直る。
「やあ、関羽。それに世平達も」
「え、あ……誰だよ、お前」
「り、劉備……!」
戦慄した関羽の言葉に猫族達が一斉にどよめく。
「劉備って……関羽、あれが本当に劉備様なのか!?」
関羽が青ざめて問いかけるのに、関羽は短く頷いた。
成長した劉備の、なんと美しく、なんと凶悪なことか。
妙幻に痛めつけられ疲弊しきった関羽には、彼の淀んだ金の瞳に宿る狂気は恐ろしい猛毒としか思えなかった。
まさか、この場に彼が現れるなんて!
関羽は冷や汗を流しながら、劉備に偃月刀の切っ先を向けた。
劉備は悲しげに微笑んだ。
「……劉備」
「関羽。どうして、僕のことを見てくれないんだい? 曹操の方が大事? 猫族よりも、幽谷よりも」
「そんなんじゃないわ。わたしは――――」
「嘘つき」
刹那、劉備の身体から黒い霧が吹き出した。
それらは周囲へ急速に広がり、呑み込み、濃密な闇を作り出す。すぐ隣にいる筈の曹操の姿すら見えにくい。
「劉備! 一体何を……」
「僕達だけで、国を作るんだ。猫族と幽谷だけの、特別な国だ。その為にはね、この場にいる人間は皆邪魔なんだ。だから妙幻の代わりに僕が《掃除》する。応龍だなんて名ばかりだ。幽谷はこんなに弱くなかった。いつもいつも、関羽と一緒に僕を守ってくれた、助けてくれた。役に立たないなら、早く幽谷を返してくれないかい?」
妙幻は劉備をきっと睨めつけた。
「芥(ごみ)から生まれた闇が、何を戯けたことを……」
「芥に良いようにされているのは君じゃないか。情けないね。正真正銘の四霊、応龍が。笑わせる」
「劉備!」
妙幻の身体から力のようなモノが放出されるのを肌で感じ、関羽が声を張り上げた。
関羽の怒声にはっとした劉備は、「ああ、そうだった」と口を片手で覆って苦笑を滲ませた。
「これ以上幽谷に負担をかけてはいけないね。ごめんね、関羽。今、曹操達を殺して――――」
「劉備!!」
今度は封蘭の裏返った声だ。
趙雲の拘束を解こうと暴れていた封蘭は動きを止めていた、この世の終わりとでも言わんばかりに目を剥き青ざめ唇を戦慄かせていた。
「あの人に――――淡華(たんか)さんに何をした!?」
「たんか……?」
誰のことだと恒浪牙を見やるが、彼もまた、血相を変えて劉備を凝視していた。
劉備はなんてことも無いように微笑みを浮かべたまま答えた。
「ああ、力を貰ったんだよ。加減を間違えて瀕死の状態になってしまったけれど、多分大丈夫なんじゃないかな」
「――――ッ!!」
封蘭が目を丸くした。
趙雲の拘束を今度こそ解いて、劉備に掴みかかる。拳で殴りつけようとすると、いとも容易く受け止められた。
「ああ、星河は大丈夫。五月蠅かったけれど殺さずにいたよ。袁紹はもう用無しだったから殺したけどね」
「ふざけるな!! あの人は、あの人は僕の大事な人だったんだぞ!? あの人には手を出すなと言ってあったじゃないか、だのに――――」
「――――君の《大事》は僕で良いじゃないか」
劉備から笑顔が消えた。
拗ねたような、怒っているような子供の顔をして封蘭の双肩を掴む。それを即座に振り払われた。
「僕なら、君を追い出した男みたいにはならないよ。ちゃんと友達として、」
「いつ、誰が、お前とそんな関係になると言った!? お前なんか、淡華さんと比べる程の価値も無い! 今すぐ淡華さんに奪った力を戻せ!!」
声を荒げて詰め寄る封蘭は、淡華という人物の為にと必死な様子であった。封蘭にとって、余程大切な人物のようだ。
淡華のことを、恒浪牙も知っているようだ。努めて平静を装っているが、分かりやすいくらいに殺気立っている。
「そんなにあの女仙が大切なんだね」
「当たり前だ!! 良いから早――――」
どっ、と鈍い音がした。
封蘭は言葉を止め、目を剥く。己の腹を見下ろし、めり込んだ拳に奥歯を噛み締めた。
「てっ……めぇ!!」
「少し、眠っていると良い」
「……っざっけんな……」
封蘭は憎々しげに劉備を睨めつけ、絶入した。
その小柄な身体を劉備が抱き寄せる。寂しそうな顔で、頬を撫でた。
「可哀相な封蘭。君は、一番大事な友達に裏切られていたのだもの。大事なものは、僕だけにするべきなんだよ」
僕なら、あんなつまらない《嘘》をつくことは絶対に無い。
断じて、劉備は切なげに微笑むのだ。
.
- 263 -
[*前] | [次#]
ページ:263/294
しおり
←