35
一矢が兵士の間を寸陰に通過する。
鋭利な鏃(やじり)は寸分違わず彼女のこめかみを狙っていた。
殺すつもりで放たれた矢は、彼女へと急速に迫る。
そして――――。
蜥蜴の掌を貫いた。
彼女は……封蘭は驚いたように蜥蜴の手の主を見上げ、小さく口を開いた。
「妙幻……」
「下賤らしい考えよ」
妙幻は忌々しそうに舌を打った。
その直後に弾かれるように振り返って矢が突き刺さったままの左腕を薙ぎ――――停止した。
妙幻が驚愕に目を剥く。
「何――――」
「妙幻!」
封蘭が呼ぶも遅し。
妙幻の背後を取った夏侯惇が、彼女に向けて剣を一息に振り下ろす!
‡‡‡
「うああぁぁぁ!」
袈裟切りに斬りつけた夏侯惇は着地するなり背後に跳躍して距離を取った。
十分な間合いを取ってほうと吐息を漏らす。
一か八かの賭であった。
夏侯淵が封蘭に矢を射かけ、その隙に関羽達から特徴を参考に妙幻の背後を取る。
成功したけれど、思っていたよりも容易く背後を取れたことに不審を抱かなかった訳ではなかった。
妙幻が振り返り様に薙いだ人ならざる手も、何故か夏侯惇に当たる直前にぴたりと動きを停止してしまった。
話を聞く限りは、このように簡単に隙を突ける程の相手ではなかった筈なのだが……。
肩口から腰にかけて深々と斬り裂かれた妙幻は恨めしげな呻きを漏らし、ふらりとよろめく。憤懣やるかたなしと言った体で夏侯惇を睨めつけた。凄まじい殺気に、全身から汗がぶわりと噴き出した。
「おのれ……おのれぇぇ……!! 何故だ、何故身体が……身体が、癒えぬ……!?」
「……っ」
封蘭がざっと青ざめ、「まさか」と呟く。
妙幻に向けて片手を向けたのを阻むように、横合いから趙雲が封蘭を抱き締めるように動きを封じた。
「このっ、放せ……!!」
「すまない、暫く大人しくしていてくれ!」
方術を使おうとすると、すかさず恒浪牙が封蘭に指を向け、何やら文様を描く。
封蘭がびくんと身体を震わせて悔しげな怒声を上げた。
「くそぉぉ!!」
同時に封蘭が操っていた剣達が霧散し、双剣が地面に突き刺さった。
恒浪牙が封蘭の術を無効化したのだ。ようやっと。
「あなたは暫く大人しくしていなさい」
疲れ切った風情で、恒浪牙が封蘭に歩み寄る。
その隣を、唐突に犀煉が駆け抜けた。
止め処ない血に身体を染め上げ恨み言を吐く妙幻の身体を――――。
――――しっかと抱き締めた。
「犀煉、あなた何を――――」
するつもりなの。
関羽の言葉は途中で途切れた。言葉半ばで、呑み込んだ。
突如として燃え上がったのだ。
犀煉の身体が、妙幻の身体と共に!
あまりに突然すぎる、予想すら出来なかった行動。
関羽も、夏侯惇も――――否、その場にいた誰もが愕然と顎を落とした。
「なん……!?」
「ひぃ!! ちょっ、あ、あいつ燃えてるぞ!? 一体、どうしたんだよ!」
「さ、犀煉!!」
人体発火。
その炎が犀煉の四霊の炎であるとは一目で察しがついた。
元々このつもりだったのか、それとも衝動的なものなのかは分からないが、彼は何も言わず妙幻と燃え盛る。どうしてか、妙幻が抵抗しても犀煉は彼女を放さずにいられた。妙幻は、力が弱まっているのだろうか。
自らの身体ごと妙幻を業火で灼く犀煉は、恒浪牙ががなるように呼んでも、決して妙幻を離さなかった。
「あの馬鹿……!!」
恒浪牙が駆け出して犀煉の肩を躊躇い無く掴んで無理矢理に引き剥がした。
刹那、一閃。
燃え続ける犀煉の身体を妙幻の左腕が引き裂いた。爪を立てて肉を抉り腸を引く。それすらも燃えていた。
「……貴様ぁぁ……!!」
全身を灼かれた妙幻は霰もない姿だった。何処まで自分を虚仮にするのか――――激情を露わに犀煉をもう一度左腕の爪で引き裂いた。恒浪牙には燃えている彼を抱きかかえることが出来ず、庇うことも間に合わなかった。
「犀煉!!」
犀煉から離れた妙幻の身体から炎が徐々に離れていくのに対し、燃えたまま、犀煉はその場に崩れた。
色を失った関羽が駆け寄るが、恒浪牙が手で制す。恒浪牙もどしゃりと倒れた犀煉から一歩退がり、炎が移った手を振って消化した。すぐに袖の中に隠した手は、酷く爛れてしまっていた。
「さ、犀煉、どうしてこんなこと……!」
関羽の問いに、犀煉は微かに咽の奥で嗤(わら)ったように思う。炎に包まれて、些細な動きすら分からない。何故、炎が収まらない。犀煉の四霊は鳳凰なのだから、炎に包まれれば彼は怪我が治る筈だ。だのに、その身体を炎が破壊していく。黒ずみへと変えていく。
何を考えているのだ、この男は!
誰もがそう思ったことだろう。
夏侯惇も、突然の犀煉の行動は、気が触れたとしか思えなかった。
ふと、犀煉が片手を動かした直後、身体を包んでいた炎が急速に鎮火した。
全身を黒く炭まみれになった犀煉はまだ生きていた。恒浪牙がそっと身体を支えてやると、今度ははっきりと嗤った。
「本当に……無様だな。かの応龍が、器の膂力すら、満足に振るえぬとは」
常と変わらぬ抑揚に欠けた低い声だった。本当に焼けているのか、深い傷を負ったのか、一瞬だけ疑ってしまう程に。
妙幻がぎりりと歯軋りした。
「この妾が貴様ら如きに……許さぬ、許さぬ。下賤も、猫族も、生かしてはおかぬぞ!!」
「やれるものならおやりなさい。どうせ今のあなたには何も出来ないのですからね。余裕ぶっこいた自業自得ですよ。ざまぁみやがれってんだクソアマ」
恒浪牙の口調が粗雑になる。汚物を見るかのように、妙幻を睨めつけた。
犀煉は、嘲るような低い笑声を漏らし続けた。
「予定とは違うが……俺はもうこの場を去るぞ」
「……私達に託すつもりかい?」
犀煉は答えを返さなかった。
代わりとばかりに身体をほんのり赤く光らせ、その光を分離する。
分離した光は人の形を作り出した。徐々に赤以外の色を帯び、姿をくっきりと浮かび上がらせていく。
そうして現れたのは、燃えるように赤い赤い美少年だった。
‡‡‡
「……ふむ。これがお前の選んだ最期か、犀煉」
淡々とした少年は犀煉を見下ろし、妙幻を振り返った。場に似つかわしくなく、涼しい顔をして友に声をかけた。
「人とは、謎なものだな。果たす前に身体が限界だと悟ると、すぐにやることを変えてしまった。我の見届けたかったものとは違うようだ」
「失せろ赫平……汝れも殺されたいか」
「まさか。もう用は終わった」
少年――――赫平は肩をすくめ、犀煉をもう一度見下ろして姿を消す。陽炎のように姿を揺らめかせながら、空気に溶け込むように。
……何がなんなのか、分からなくなっている。
「恒浪牙、今のは……」
「犀煉が死にました」
彼が何をしたかは、すぐに分かります。
そう言いながら妙幻を見据える目は異様に冷たかった。
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