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 予想された苦痛は、果たして訪れなかった。
 関羽の身体に突き刺さるその半瞬前に、剣は全てが動きを止め、まるで蒸発していくかのように、風に乗って空気に溶け込んでいった。
 それを間近で見せられて、関羽も戸惑う。

 こんな芸当が出来るのは、味方のうちでは恒浪牙のみだ。だが彼は関羽と同じく封蘭に剣の雨を身に受けている筈。術が発動出来るような余裕は無い。

 妙幻や、剣を仕掛けた封蘭が止めて消すなんてことをすることも当然考えられない。

 ならば、劉備……?
 金眼に支配された彼ならば、封蘭の術を破ることは出来るかもしれない。……ただ、戦の前にあれだけの啖呵(たんか)を切った関羽を助けようとするのかは、分からないけれど。

 重い首を回し、彼の姿を探す。
 けれどもあの伸びた銀髪を目にすることは無かった。
 ただその代わりに、真っ赤な――――燃え盛る炎の如き髪が関羽の視線を捉えて放さなかった。日光を反射して朱金に輝くその滑らかな髪が風に揺れる様は、炎そのものだし、上質な衣にも似る。

 けれどもその合間に見えるのは、夜のような鉄紺色の外套だ。その夜の色には見覚えがあった。
 関羽は薄く口を開き、その後ろ姿に呼びかけた。


「さい、れん……?」


 ややあって、彼は肩越しに振り返った。
 赤い髪の合間から、血のような赤い目が関羽を捉え、すっと細められた。無機質な右目は、その色とは裏腹に冷たく、まるで氷の刃だ。


「随分と、無謀な真似をする。そうまでして、幽谷を救いたいのか」


 今まで忽然と姿を消していた犀煉は、しっかりと地面を踏み締めて関羽を庇うように立っていた。彼に助けられたのだと分かっても、この状況下で礼を言うことは出来なかった。
 関羽は転がって、全身に力を入れ身を起こした。偃月刀をしっかりと握って犀煉の隣に立つ。


「……幽谷、だけじゃないわ。犀華も、封蘭も――――劉備も助けたいの」

「……」

「あなたは犀華を助けたいのでしょう? だから、ここに来たのよね」


 この旬日(じゅんじつ)、何をしていたか分からない。
 けれども犀華の為だけを考えていたことだけは分かる。
 今まで、幽谷に対する仕打ちは全て、犀華に繋がっていたことだから。幽谷をぞんざいに扱っていたのも、幽谷に優しくしてしまったのも、幽谷に覚醒をさせないようにしていたのも。よしや矛盾していても、全てすべて、犀華への愛情故のことだった。

 犀煉が唯一心を向ける先が、犀華。
 大事な彼女を失って覚醒しかけたのを関麗に救われて。
 今までどんな心地で生きていたのか、関羽には分からない。
 ただ、決して関麗に感謝はしていないだろうとは、何とはなしに察せられた。あのまま犀煉としての死を迎え、覚醒していたら、こんなことにならなかったかもしれないのだ。それはとても悲しく寂しく思うが、それは関麗が関羽の母親であるからに他ならない。犀煉にとっては、違うのだ。

 犀煉は関羽を一瞥した。


「俺の目的は一つ。妙幻を殺すことだ」

「そう。……じゃあ、この時だけで良いわ。わたし達に協力して」


 断る、と冷たく切り捨てられるかもしれないと思った。
 それでも一縷の望みを賭けるように犀煉を見上げると、彼は片手の甲を関羽の額に当てた。一瞬、その手が発光したかと思うと、全身の痛みが急速に失せていく。
 治療してくれたのだと、礼を言おうとするとそれを阻むように犀煉は早口に告げた。


「足手まといにならぬ限りはな」


 と。
 それに、関羽は大きく頷いた。

 そこへ、妙幻の呆れ返った声がかかった。


「……赫平(かくへい)も物好きな奴よな」

「かくへい?」

「犀煉の身体に収まっていた四霊ですよ」


 後ろから、穏やかな声。恒浪牙だ。
 犀煉の隣に立ち、恐ろしく《和やかな》笑みを浮かべた彼のこめかみの辺りに、髪に隠れて青筋が浮いていた。


「赫平は鳳凰の雄――――つまりは鳳ですね。まあそんなことはどうでも良いんですが。今まで何してたんですか、あなたは」

「……四霊が馴染むまで、気を失っていた」

「私に黙って赫平を身体に入れ、旬日寝てたってことですね。私に相談して下されば、もっと穏便に事が運べたのに」


 途端、犀煉が顔を歪める。今思い出しても腹立たしい、そう言いたげだ。


「勝手にあれが入ってきたのだ」

「……四霊とは、そのように自由に出入り出来るものなのか?」

「出来ぬ故に旬日昏睡していたのだが?」

「赫平は結構自分本位ですもんねー。譲歩するのって、大体奥さんのことだけだったかなぁ。あ、そういうとこは犀煉の犀華殿に対するところとそっくり」

「……」


 直後、犀煉から殺気がぶわりと溢れ出す。
 恒浪牙は「あれ」と後頭部を掻いて、片手で宙に円を描いた。

 半瞬遅れて恒浪牙の地面から勢い良く炎が噴き出す。
 それは天を突かんばかりの柱となり、ぐなりと湾曲した。先端が蛇のような頭を形作り、髭や角を生やす。ごうごうと燃え盛り渦巻くそれは、龍だ。とてつもない熱気に曹操に腕を引かれて後退する。犀煉を挟んでも、肌をじりじりと焼かれた。
 恒浪牙はと言えば、結界を張って苦笑を浮かべている。


「ひっどいなぁ。今のはさすがにヒヤリとしたよ」

「……ちっ」


 まさか、本気で当てる気だったのかしら。
 恒浪牙が会話に加わると、どうしてこんなに緊迫が解けてしまうのだろう。有り難いような気もするし、場が弛み過ぎな気もする。
 もう少し状況を考えた方が良いんじゃ――――とそう声をかけそうになった時、恒浪牙が関羽を呼んだ。


「砂嵐のことはお気になさらず。妙幻はあれで砂嵐には優しいので、砂嵐に向かう衝撃もほんの二割程度です。そればかりに囚われていれば、簡単に殺されますよ。全力で行きなさい」

「で、でも……」

「それに、あまり躊躇っていると、世平殿達にも危害が向いてしまいますよ」

「え……」


 まさに、その時。
 恒浪牙が指差した方角から、張飛達の声が聞こえた。
 思いの外、近かった。



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