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 妙幻を傷つければ、砂嵐も傷つく。
 砂嵐の身体は今、酷く衰弱している。ほんの少しの傷でも危うかった。
 ともなれば、恒浪牙に妙幻を傷つけられよう筈もない。

 他人と切り捨てつつも、心の奥底では未だに砂嵐に固執していると、恒浪牙自身も自覚している。

 したり顔の妙幻が鼻を鳴らして封蘭を呼べば、彼女は双剣を出して関羽達の足下へと投げつけた。
 封蘭が何事か呟くとぐっさりと突き刺さったそれらは黒い霧を放ち出す。瞬く間に、生き物のように地面を張って広がっていく。

 曹操が咄嗟に袖で関羽の顔の下半分を押さえて後退した。己も手で覆い隠す。
 その行動は正解だ。恒浪牙は黒い霧を冷めた目で見下ろし、袖で鼻と口を塞いだ。
 封蘭の術は多彩だ。武術に自信が無い分彼女は非常に頭が良い。周囲には勘違いされることもあるが、彼女の工夫を凝らした術は威力こそ弱いのが玉に瑕(きず)であれどもその辺を歩く地仙とも遜色が無い。

 この霧を吸えば、短時間で身体の中に黴(かび)が生える。その黴から感染症の病原菌が発生し、たった二日で母体となった人間を殺す。更に、有効な治療法の無いそれは風に乗って付近に蔓延し、村々を滅ぼして被害を拡大していく。
 遠い昔、封蘭はそれで大飢饉に見舞われていた村を実験台にして、この術を試した。

 さすがに恒浪牙が必死になって食い止めたけれど、きっとあの時とはまた違った病原菌が発生するだろう。
 恒浪牙や関羽、曹操以外にも、この場には妙幻のもとへ集った人間達がいる。彼らをも犠牲にして病原菌を広めようとしていた。今この時、この場にいる人間を確実に滅ぼす為に。
 この黒い霧を吸ってもすぐに異常が見られる訳ではない。たった一日程の潜伏期間は普段と何ら変わらないだろうが、黴が体内に生えた後、病原菌が放出されてようやっと全身に死ぬ程の痛みが生じる。立つことも気絶することも出来ないそれは母体が感染症を患って死ぬまでの二日間絶えること無く続いていく。

 恒浪牙は即座に術で烈風を巻き起こした。
 乱暴な、身体を容赦なく叩きつける風はあっという間に黒霧を天へと押し上げ、何処か遠く極度に乾燥した、無人の異境へと連れて行く。


「……前と同じ弱点であれば良いのですが」


 ぽつりと呟いて、恒浪牙は封蘭を見やる。特に悔しそうでも憎らしげでもない、平然と顎を少しだけ反らして佇む彼女は、片手を大きく横に薙ぐ。
 直後、地面に突き刺さった双剣が自ら地面から抜け、宙に浮かんだ。
 辺りを見渡すかのように、ぐるりと横に回転して微動した。痙攣して横に分裂する。瞬く間に何度も何度も同じ形状の細身の剣が分裂し恒浪牙達を取り囲んだ。

 それらは今度は縦に傾ぎ、切っ先を三人へと向ける。揶揄するように僅かに揺らいだ剣達は、不意に動きをぴたと止めるとそのまま一瞬で三人に襲いかかった。
 それをそれぞれの得物で弾き返すも、宙に放り出された剣はしなやかに回転して体勢をを整え、再び襲いかかる。まるで剣が自らの意志を持って、封蘭の意に従っているかのようだった。剣はざっと十二本。個々で違う動きを見せる為、封蘭の手の動きを見ても軌道の予測が全く立たなかった。

 関羽が剣に脇腹を薄く裂かれた。
 曹操もすでに衣服の所々が斬られており、苛立ちが顔にありありと滲んでいた。
 恒浪牙も、先程髪が犠牲になった。

 恒浪牙が曹操と関羽のことも気にかけて戦っていることを踏まえた上での、いやらしい攻撃である。
 舌打ちを堪えきれず、恒浪牙は狼牙棒を大きく振りかぶった。数本の剣が狼牙棒に当たって火花を散らす。だが何度いなしても弾き飛ばしても切りが無かった。

 せめて術を練る暇さえあれば――――……。


「っはああぁぁぁ!!」


 関羽が不意に駆け出す。襲いかかる剣の雨を危なげに避け、身体中を裂かれながら封蘭へと突進する。偃月刀は振りかぶらない。ただ、ひたにひたに封蘭へ猛進した。恐らくは組み付くつもりなのだろう。だがそれは危うい。
 曹操が焦りに早口で関羽を呼ぶが、彼女は止まらなかった。助けに行きたいが、己の意志で彼らを害す剣達がそれを阻む。

 関羽は封蘭を呼んで、抱きつこうとした。その瞬間、封蘭が戦慄して青ざめる。強い拒絶と恐怖が、色違いの瞳にくっきりと浮かんだ。

 あと二歩――――というところで、


「つまらぬことをする」

「っ! きゃ……っ」


 横から蜥蜴(とかげ)の手が伸びてきた。
 三本の指の先に鋭利で長い爪の伸びたそれは関羽の手を掴み、簡単に持ち上げる。爪が肌に食い込んだ。

 冷たい鱗の感触にぞわりと総身が震えた。人の身体をしているのに、元は人の身体だったのに、左腕だけが人外の形に変化してしまっている。
 それは、犀華と幽谷の身体なのに!

 妙幻は恒浪牙に身体を向けたまま、片手間で関羽を止めた。力なんて使っていないのに、あっさりと止められた。


「う……ぐ、」

「関羽!!」

「見下げた一族だな。封蘭をまた苦しませるか」

「っ苦しませる、なんて……!」


 わたしは助けたいのよと、必死に、途切れ途切れに反論する。

 恒浪牙は関羽を助けようと術を練ろうとしてまた剣に阻まれた。心なし、剣の動きが一段と速く、また荒々しくなっている。封蘭の感情が作用したのだ。
 妙幻が封蘭を守ることは、不思議なことではない。妙幻は、懐に入れた者には甘い傾向があるのだ。ただ、人の《優しい》には全く当てはまらないけれども。

 関羽は呻いて偃月刀を振りかぶった。己の迷いを断ち切るように、妙幻に向かって振り下ろす――――。

 が、妙幻は関羽を見ること無く、ぞんざいに投げ捨てた。
 地面に強か身体を打ち付けて関羽は地面を転がる。呻いて、すぐに立ち上がった。

 妙幻は興味無さそうに、《芥(ごみ)》を見た。


「汚い混血が、よくもまあ醜く足掻くものよ」

「……混血の何が悪いの? わたしは猫族でもあるし人間でもある。ただそれだけのことだわ。わたしも曹操も、混血以前にわたしであって、曹操であるの。混血なんて関係なく、わたしはわたしであることに、わたしとして猫族の皆と生きてきたことに誇りを持ってる。あなたに汚いと言われる筋合いなんて無いわ」


 彼女の目には、もう幽谷は映っていなかった。
 己の動きを鈍らせる迷いの一切を削ぎ落とし、鋭い刃を漆黒の瞳に宿らせる。
 はっきりとした闘志を持って、彼女は妙幻に偃月刀を向けた。



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