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 妙幻は空に《立って》戦の様子を傍観していた。
 全てが彼女の思っていた通りに動いている。
 恒浪牙に頼り切った策を弄(ろう)してくるとは分かり切ったことだ。
 となれば、恒浪牙だけを排除すれば良い。後は蜘蛛の子を蹴散らすようなものだ。

 だが、妙幻は力を使えない。
 この十日間、彼女が壊した恒浪牙の器は十六体。そのどれもが外れだった。これ以上力を行使すれば、幽谷が蘇る危険性がぐっと高まってしまう。たかだか呪詛を解くが為に、生まれる筈のない意識に力を与え続けるなど馬鹿馬鹿しい。
 それに、恒浪牙に対する手はもう打ってある。彼が妙幻に狼牙棒を向けられない、決定的な術が砂嵐の手によって妙幻にかけられているのだ。

 妙幻は鼻を鳴らし、唐突に降下した。
 妙幻が手駒とした人間達は恒浪牙の術によって影を縛られ、微動すら許されずにいる。
 それを冷淡に一望し、妙幻は大股にその間を歩いた。ゆっくり、ゆっくりと、まるで気まぐれに散策しているかのように。

 味方である人間達を労る素振りは無い。……否、素振りどころかその胸中にすら、そういった温かな感情は宿っていないだろう。どうせ消える塵芥(ちりあくた)を気にする必要など、清廉なる彼女が感じよう筈もない。

 恒浪牙の率いる軍は、この兵士達を殺さずに済ますようだ。何とも温(ぬる)い者達である。実に下らぬ。

 恒浪牙達のいる場所は中央。
 そこへ、気の向くままに向かう。

――――だが。


「……待ちなよ、妙幻」


 目の前に封蘭が現れる。束ねていた紐が千切れてしまった為に髪を下ろさざるを得なかった彼女は、風で靡(なび)く髪を鬱陶しそうに押さえ、妙幻に歩み寄る。


「何だ、天幕でうずくまっておったのではなかったのか」


 皮肉でも何でもなく、心から不思議そうに言われ、封蘭はぐにゃりと顔をしかめた。


「金眼につきまとわれてウザったいんだ。あれ、今すぐ殺すなんてこと出来ないの?」

「ならぬ。あれの力は掃除を楽にする。あれを今殺さば、我らはその時点で役目を終え帰る。そうなれば掃除する機会も無い。わざわざ汚れた人の世に降りて再会する気も起きぬわ。斯様に厭わしいのであれば、このまま妾に同行すれば良い。汝れがいたとて大した邪魔にはならぬだろうて」

「……言われなくてもそうするよ」


 封蘭は唇を尖らせて、妙幻の隣に並ぶ。それから片手を薙いで周囲の人間を見えない刃で斬り裂いた。
 今の封蘭にとって、人間の男は目にするのもおぞましい存在だろう。距離が近過ぎることが嫌なのだ。
 妙幻も並みいる人間達の合間を縫うのを面倒に感じていたから、少しだけすっきりしたような面持ちで小さく頷いた。再び歩き出し、中央へ向かう。

 封蘭も彼女がどうするつもりなのか、何とはなしに分かっているだろう。黙ってついてくる。

 妙幻にしてみれば、封蘭の力は有り難いものだった。
 恒浪牙は封蘭にした仕打ちのことを後悔しているらしく、封蘭に対して甘い部分がままにある。彼女を止める為に完膚無きまでに痛めつけないのも、それ故。
 それに封蘭は精神が幼く不安定だ。暴走すれば一掃など容易い。

 泉沈はとても煩わしいが、その力は妙幻にも引けを取るものではないと認めている。普段から自分のことを弱いと言うのは、謙遜などと可愛らしいものではなく、相手を油断させる為の泉沈の訛言(かげん)である。彼は腹が闇よりも黒い。如何にも聖人然としたなよやかな姿勢とは裏腹に恒浪牙よりも知略に長け、妙幻以上に狡猾な男だ。天帝すらをも騙す彼の手腕には、呆れにも似た畏怖の感情を持つ。それが、非常に屈辱的なのだった。
 が、砂嵐や封蘭は勿論、人間に対する彼の愛情は本物でとても深い。その愛情故に、封蘭の意思を尊重して呂布の殺害を自ら勧めるようなことは無かった。
 上辺だけで彼を判断することは安易な愚行だ。本当に恐ろしいのは、妙幻よりも泉沈という四霊。全ての吉兆(みらい)を把握する、蓬莱山を背負う大亀なのだ。

 その力を泉沈が暴走させれば、恒浪牙にも取り返しの付かないことになる。封蘭が覚醒した時の比ではない。


「……いたな」


 妙幻は前を見据え、足を早めた。

 前方に見える三人の人影は、固定され飾られた人形のように動かない兵士達の中では浮いていた。周囲の無抵抗な兵士達を気絶させつばかりで、前進しようとしない。

 と、恒浪牙がこちらに気付いた。眉間に皺を寄せたのは一瞬。すぐに呪詛が未だ妙幻に残されていることにしたり顔で口角をつり上げた。


「相も変わらず不愉快な面よのう」

「あなたも、なかなか醜悪な面構えをなさっておられていますね。汚い内面が九割表情に出てきていますよ。少しは子供っぽい封蘭や犀華殿を見習っては如何ですか? まあ、天と地程の差があるので二人の域どころか幽谷にすら到達出来ないでしょうがねえ」


 刺々しい辛辣な言葉はしかし、妙幻の耳には右から左へ聞き流されてしまう。
 妙幻は涼しい顔で、片手を振るった。

 直後、封蘭が力を使役し、兵士達の拘束を解く。


「おやおやまあ……あの応龍が猫族の少女頼みとは面白い」

「そうなるようにし向けたのは汝れであろう。それに……嫌な話ではあるが、妾は汝れと同様、使えるものは使えぬようになるまでは有意義に使う」

「一緒にすんなクソアマ」

「ほ、ほ。賊が吼えおるわ。なんと滑稽なことよな」


 嘲笑って彼女は顎を僅かに上げた。


「このような賊に心奪われたこと、砂嵐はさぞ口惜しかろうな」

「今の彼女は俺の妻じゃない。下らねえことほざく為に来ただけと言うんなら、その気持ち悪い面、穴だらけにしてやろうか」

「では、好きにすると良い。妾の身体を傷つければ、そのまま砂嵐に行くぞ」


 婉然とした笑みを崩さぬまま、彼女は告げる。

 今、自分は砂嵐の命を身体に入れていることを――――。



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