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 どういうことだ。
 夏侯惇が青ざめた恒浪牙に問いかけた。

 封蘭のあの取り乱しようは異様だった。特に何かをした訳ではない。気に障るような発言だったとは思うが、あそこまで――――今まで押し殺された《封蘭》が僅かに出てくるまで取り乱す程のものだったとも思えない。

 恒浪牙は眉間を押さえると、大仰に息を吐き出した。何処か、失望したかのような沈痛の面持ちである。


「……これだから、人間は欲深い」

「どういう意味だ」


 曹操が眉根を寄せて促せば、彼は流し目に一瞥をくれた。
 それから躊躇うように口の開閉を繰り返し、やがて諦めたように後頭部を掻いて眦を下げた。


「……封蘭が、猫族によって人間の世界に放り捨てられ、その後に覚醒したと言いましたね。その中で封蘭は心に深い傷を持ってしまいました。妙幻が集めた人間達は、彼女の一番嫌な記憶を呼び覚ましたんでしょう」

「傷って、どういう……」

「彼女は彼女の意思に無く、純潔ではありません。それがどういうことか、分かりますね」


 関羽は息を呑む。

 恒浪牙は前髪を掻き上げて目を伏せた。
――――封蘭は、覚醒した時はそれはそれは、花も恥じらう程に愛くるしい女性だった。笑顔の失われたことが惜しくて惜しくて仕方がないくらいに。
 下賤と蔑まれる一族の、とても綺麗な生娘ともなれば、賊などには性的な慰み者にされてもおかしくはない。
 それに、封蘭は強い訳でもなく、その頃には心身共に衰弱しきっていた。抵抗も出来ぬ間に、格好の餌食となってしまったのだ。

 覚醒したのは陵辱が終わった後。猫族の村を出て娘を捜して回っていた父親が賊を皆殺しにし、更に彼を追いかけてきた猫族の男に父親が目の前で殺された時だ。
 父を殺した猫族の男を無惨に殺害し、茫然自失とした封蘭の姿は、哀れ以外に形容のしようが無い。

 苦しかっただろう。
 女性にとって、好きでも何でもない男に純潔を奪われることが、どれだけの恐怖か、男である恒浪牙には分からない。察しがついたとしても、それでも余りあるだろう。
 それに、父親を同族に殺され覚醒するまで、観察することしかしなかった自分に、理解する資格も無い。今でこそ彼女に憐憫を抱くけれど、あの頃の自分は、封蘭を助けようと思わなかった。ただただ最初の四霊として観察することに重きを置いていた。今更だが、それが悔やまれて仕方がない。

 同性である関羽を見れば、胸の前で両手を握り、表情を強ばらせている。


「妙幻が彼女の心の傷にまで配慮するとは思えませんし……あなた方の姿勢のことで封蘭も精神が不安定になっていることでしょう。……まあ、封蘭に邪な感情を抱いた兵士達はもう生きていないとは思いますけど。後で猫族の皆さんに、封蘭への接触には気を付けるようにお話し下さい」


 恐らくはそのこともあって、一時的に泉沈が表に出ていたのだろう。
 恒浪牙は敵陣を見据え、目を細めた。

 封蘭の心は闇と血だらけだ。闇が心の傷を塞がせず、無数の傷口からは赤い血が流れ続ける。長い間、ずっと、ずっと、痛みを抱えて生きてきた。
 だのに、臆病故に死も選べないで、苦しみという檻の中で生き続けるしか無かった。
 封蘭の苦しみは、誰にも理解し得ないだろう。彼女よりも長い時を生きる地仙すら、分からないのだから。

 だからこそ彼女に救われて欲しいと思うのは、恒浪牙の勝手な憐れみだ。


「……関羽さん」

「あ、はい」

「封蘭を――――ああ、いえ。何でもありません」


 ……封蘭を、殺して欲しい、なんて。
 何を言おうとしたんだか。
 恒浪牙は忘れてくれと誤魔化し、その場を辞した。妙幻はそろそろ、動いてくるだろう――――そう言い置いて。

 歩きながら、思考を中断させる。
 そうして封蘭を頭の片隅へと追いやり、無数の引き出しの中から先程の、泉沈の言葉を引き出した。


『先日から、赫平の気配が微かにしているんだ。また細君のことを捜しているのだろうけれど、それにしては妙な気配でね。恒浪牙は、何か知らないかい』


 赫平は犀煉の身体に入れられていた四霊である。犀煉が覚醒し損ねた際に、身体から離れて天上へと戻って行ったのだった。
 彼と話したのはつい最近のこと。
 あの後対になる妻を捜しに行っている筈なのだが、微かに、妙な気配がしているとは――――……。


「まさか……彼は、また……?」

「恒浪牙」

「……おや、夏侯惇将軍。如何なさいましたか」


 思考を止めたのは夏侯惇。恒浪牙を追いかけてきたのだろうか。
 足を止めて彼に向き直って首を傾けた。

 夏侯惇は曹操達を振り返り、策の確認をしておきたいと。
 この戦では、策の要は恒浪牙の術だ。相手が相手だ、人間らしい戦法ではまず負ける。
 なので、夏侯惇や他の軍師と、恒浪牙の術を用いた戦法を一日かけて思案したのだった。が、それでも楽に勝てるとは思えない。良くて辛勝だ。一つもしくじることは許されない。そのことは、夏侯惇も軍師達も、曹操も分かっていることだろう

 慎重に戦に取り組もうとする彼に、恒浪牙は快く了承した。



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