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 その一報は、曹操軍を揺るがした。

 妙幻がさもあらん大義名分を掲げ、曹操軍と、その曹操軍に与(くみ)する猫族を討伐しようとしている。
 妙幻は、封蘭は、四霊だ。天帝より使命を賜った清き存在。
 それに加えて天仙もいるとなれば――――封蘭が十三支であることはどのように作用したのか分からぬが――――どちらが正しいかは、世の人間から見れば一目瞭然だ。

 妙幻達は言わば天帝の御遣いである。最初こそ信じられぬであろうが、彼女らの力を見せつけられれば、心の弱い人間達は即座に平伏すだろう。四霊の力を持って難病の村人を何人も癒したとも伝わっている。それが事実とすれば人心の掌握など容易いことだ。

 口惜しいが、今頃はさぞ愉しげに笑っていることだろう。もうすぐ、人間達の、人間達による不毛な争いが始められるのだから。

 広大な草原を前に、曹操軍は布陣する。
 緑の地平線には、人が折り重なって作られた太い線が走っていた。それは左右、果てが見えない。その奥にも人は大勢並んでいることだろう。世界に仇成す軍を睥睨して。

 苦々しい思いで、曹操は敵となったかつての同志らを見据えた。

 その側には、関羽とようやっと体調の安定した恒浪牙、そして、夏侯惇。
 四人は揃って、恒浪牙が遣わした斥候が戻ってくるのを待っていた。


「さぁて……本当に、妙幻は退屈しているようですね。大した鬱憤晴らしだ」


 穏やかに毒を吐く恒浪牙の表情は暗い。ここ数日、彼は犀煉が姿を消したことをずっと気にかけていたのだ。
 彼が何処に、何をしに行ったのかは明白だ。……そして、もうその命は妙幻に踏み潰されているだろうことも。
 矛盾だらけの己の行動に腹を立てながら、最期まで犀華のことばかりを想った男である。仮に引き留めていたとしても、こちらに味方するとは到底思えない。犀煉にとって何よりも――――尊い筈の己の命よりも、犀華が何よりも大事なのだ。人間達の命運など、その辺の石ころ以下の価値でしかない。

 だが、恒浪牙はやはり犀煉には使命を負えて消えるその時まで、生きていて欲しかったのだろう。それは人で言う、寿命を全うするということだから。


「……しかし、いやに斥候の戻りが遅い」

「ああ。朝方に放ったらしいな」

「本当なら、天頂に日が至る前には戻る予定だったのですが……まさか妙幻に見つかったのだろうか」


 目を細め、顎を撫でる。困ったような表情をしながら、瞳は深い思案に沈みつつ底の無い知力を秘めた鋭い光を宿す。
 けれども、ふと身体を反転させて背後へ向き直るのだ。
 すると恒浪牙の前に突如黒い霧が現れる。

 それはつかの間大気をたゆたうと、ぎゅっと凝縮して人の姿を形作る。
 輪郭が浮かび上がり、現れたのは――――神聖なる漆黒の化身。


『やあ、恒浪牙。徐州振りになるのだろうか、それとも……ああ、どのくらい前にあったのかな。封蘭が覚醒した時だとは覚えているのだけれど、どれくらいの時が経っているのか忘れてしまった』

「泉沈」


 伏せられた瞳に、長い睫毛の影が目元に落ちる。黒の艶やかな髪は地面に届こう程に長い。
 絶世の美貌を持ったその青年の名は泉沈。四霊、霊亀だ。
 儚げなかんばせに柔和な微笑を湛え、恒浪牙に恭しく拱手した。

 対して、恒浪牙は苦笑混じりだ。


「あなたが出てきてよろしいのですか? 妙幻には八つ当たりされませんでしたか?」

『妙幻から離れて、替わりましたから。僕には辛辣で封蘭には甘いなんて、酷い話だと思わないかい? 妙幻と一番付き合いが長いのは、僕だって言うのにね』


 まるで手の掛かる子供の扱いに疲れてここに憩いにやってきたというような風情だ。人間臭く肩を叩いてみせる泉沈に、恒浪牙は頬を掻いた。


「それで、何かご用があったのではありませんか?」


 恒浪牙に言われて、泉沈は思い出したように声を挙げた。


『ああ、そうだった。この子は君の子だろう。金眼が殺しかけていたから、助けてあげたんだ』


 そう言って大きく膨らんだ袖の中から、一羽の雀を取り出した。助けたと言うが、すでに虫の息だ。
 これを金眼――――劉備がしたというのか。
 痛ましげに関羽が顔を歪めるのに、泉沈は申し訳なさそうに頭を下げた。


『すまないね。気付いた時にはだいぶ攻撃を受けていたものだから、治そうにも金眼に追われたら僕は敵わないから』

「あ、いえ……」

『……それとも、君の場合は劉備のことを心配しているのかな。あのまま痛めつけていたら、きっとこの子の遺体と一緒にここに来ていたと思うけれど、そちらの方が、君は良かったのだろうか。僕としては、まずこの子を助けたかったのだけれど』

「いいえ! そんなことはありません……ただ、劉備がそんなことをするなんて思えないから、」


 泉沈は緩く瞬くする。
 すると、まるで幼子を見るかのように目元を和ませ、関羽の頭をそうっと撫でた。

 側で曹操と夏侯惇が身構えたが、害する気が無いのを悟るとすぐに警戒を解いた。


『君は関麗殿に良く似ているね。凛々しくて包容力がある。だから、誰からも好かれるのだろうね』

「あ、あの……」

『安心して良い。僕ら四霊の器と違って、彼の本質は変わらない。彼は劉備である為に生まれているんだ。金眼が如何に侵そうと、金眼に壊せる領域ではない。だから、君達の頑張り次第では劉備に戻れるんじゃないかな』


 関羽は訝った。
 彼の言ったのは、猫族を救うことにも繋がる。
 封蘭の憎悪を封蘭の中でずっと見つめ続けてきた筈の彼は、猫族が嫌いではないのだろうか。

 関羽の問いを悟ったらしい泉沈は、苦々しく、困ったように顔を歪めた。


『僕が思うに、封蘭は君達が死んだとしても救われない。特に、劉備は彼女の親友の血筋だ。殺して彼女が何も思わない筈がない。なら、もう何も考えさせないように、消滅させてしまった方が良いと思うんだ』

「あなたらしい意見ですね」

『ああ。僕は荒いことは総じて苦手なんだ』


 雀を歩み寄ってきた恒浪牙の手にそうっと丁寧に載せ、泉沈は『それともう一つ』と周囲を見渡す素振りを見せた。


『先日から、赫平の気配が微かにしているんだ。また細君のことを捜しているのだろうけれど、それにしては妙な気配でね。恒浪牙は、何か知らないかい』

「赫平が? いいえ。私が腹立たしくも妙幻にけちょんけちょんにされる少し前に会って以降は全く姿を見ていないけれど。妙幻は何も言っていなかったのかい?」

『「つまらぬ気まぐれを起こしよって……」って言ったきり、何も。今はとにかく人間同士の殺し合いが見れることの方が重要らしい』


 肩をすくめ、泉沈は両手を挙げる。
 けれども、右を見やり薄く目を開く。金と黒がうっすらと見えた。


『……おや、来てしまったようだ』


 ちゃんと気配は殺しておいた筈なのだけれどね。
 その独白に答える者は無い。


「あ……」

「き、貴様は!」


――――いつの間にそこにいたというのだろう。
 銀の光を放つ白い長髪を風に踊らせて、その青年は佇んでいた。

 金色の双眸を、闇に濁らせて、不機嫌そうに細めて。


「……劉、備……?」


 関羽は我知らず、その人物を認識する前に震えた声で呟いていた。



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