20
封蘭は、断崖の上に佇んでいた。
彼女の側には星河が伏せ、目を伏せている。寝ているのではない。時折、ぴくぴくと耳が動き、何かの音を捉えている。
星河を見やり、彼女は不意に右手を見下ろした。
右手は赤黒く汚れていた。握って開けば赤黒い部分に無数の細い亀裂が走る。繰り返せばバラバラと欠片が落ちた。
左手ではたき落とせば、真っ白な肌が見える。タコも出来たことの無い手だ。
手の皺と僅かに残った汚れ以外、何も無い。
――――つい先程と違って。
封蘭は、懐から徐(おもむろ)に匕首を取り出した。
一呼吸し、右掌の中心に切っ先を当て、ゆっくりと力を込めていく。
ずぶりずぶりと、緩慢に肉を裂いて中へと入っていく。血が吹き出た。流れた。
凄絶な痛みが身体に駆け巡った。だが、顔を歪めても封蘭は手を止めない。何かを確かめるように、痛みに耐えて刃を進めた。
匕首はすぐに掌を貫通した。柄近くに至って、引き抜く。
ぼとぼとと血が地面に落ちる様を、無表情に眺め、もう一度匕首を今度は傷と十字になるようにあてがい、今度は思い切り力を込めて貫いた。引き抜く。
……痛い。物凄く痛い。
その痛みは、封蘭自身がこの大地に生きる生き物でないことを示す。
本来の痛みよりも増した激痛、すぐに治ってしまう傷――――……。
血は赤い。
肌は白い。
けれど、自分は生き物ではない。
作られた道具でしかない。
猫族にも認められず、人間にも排除され、徒(いたずら)に時を過ごしただけの、出来損ないの道具。
自分では呂布を殺せない。
だって自分は弱い。満足に戦える程の勇気も力も無い。
普通に生きて来ただけだ。それがどうして、誰かを呪い殺したことになって、村を追い出されて、人間達にも芥(ごみ)のように扱われて。
迎えに来てくれた父を、追いかけてきた猫族の男に目の前で殺された直後に覚醒して、使命がどうのこうのと分かったとして、どうにもならない。
だって、この世界を、人間や猫族を救うその価値が、見いだせないのだもの。
彼らを救ってどうなる? 自分を排斥した存在を助けて、自分にどんな利がある? 何も無いじゃないか。
無駄だ。
……自分は、そこまでお人好しじゃない。
世界が滅んでも構わない、血肉に乱れてしまっても何も思わない。
そんな自分を間違っているとは思っていなかった。
どうせ誰も自分を必要としない。ならば自分も世界も何もかも必要としない。
――――けれども。
消えたい。
これ以上何も思わないように消えて無くなってしまいたい。
重い感情を抱えてずっと生きていることにはもう飽いた。
これからもずっとこのまま生きていくなんて、彼女にとっては苦痛でしかなかった。
「……ここにいたのかい?」
「……」
涼やかな声が背後から聞こえた。
封蘭は眉間に皺を寄せ、唇を引き結ぶ。ぞわり、背筋を駆け抜けるモノは悪寒だ。
振り返らずにいると、星河が唸りだした。
星河は、封蘭に絶対的に服従する。
封蘭が少しでも恐怖を抱けば彼女を守る為に牙を剥く。
「ガルルルル……」
「やっぱり、嫌われているのかな。封蘭に危害を加えるつもりは全くないのだけれど、これじゃあ封蘭に近付けない」
その声に剣呑なモノを感じた封蘭は、すかさず声を発した。
「星河を殺したら、殺す」
「分かっているよ。君の大事な友達だものね」
くすくすと笑う彼を振り返る。
白く長い髪をした青年は、和やかな笑みに狂気を孕ませて封蘭を見つめている。
……金眼如きが。
どうせ、役割を終えれば妙幻に劉備諸共殺されるというのに、もう復活する見込みも無い幽谷の為に妙幻に協力するなんて、なんとも愚陋(ぐろう)な《子供》である。
妙幻に無惨に殺されるその様を見れば、自分も少しは肩の荷が下りるか。
封蘭は星河を呼んで歩き出した。
すると、
「泉沈」
脇を通過した青年の声ではない、淑やかな女性の声が封蘭を呼んだ。
途端、封蘭の胸に一種の花が咲く。純粋な歓喜という名のその花は、《彼女》でなければ咲かすことは出来ない。
目の前に現れた女性に、封蘭は満面の笑顔を浮かべて抱きついた。なるべく負担をかけないように気を付けた。
顔を上げれば、神の一族の混血たる仙女は慈母の微笑みを儚げで美しいかんばせに湛えて頭を優しく撫でてくれた。
「久方振りですね」
「うん。淡華(たんか)さん、こっちに来ていたんだ。身体が大丈夫なの?」
「ええ。まだ体調は安定しているようですので、覚醒なされた妙幻様に、ひとたびご挨拶に窺うべきかと」
「そっか。……ああ、でも、今妙幻に会わない方が良いよ。さっきどっか行ってたんだけど、すっごく機嫌悪くして帰ってきたから。下手すると殺されちゃうよ」
「あら……そうなのですか。それでは、お会い出来ませんわね」
頬に手を添え、僅かに首を傾ける。
淡華と呼ばれたその仙女は青年に気が付くと劉備を顰めた。
「……金眼」
「ああ、あいつは気にしなくて良いよ。金眼はそのうち妙幻が片付けるからさ。淡華さんは崑崙に戻って待ってなよ。身体の方が大事大事」
滅多に無い純粋な笑顔を向け、封蘭は淡華にまったき信頼を寄せる。
だが、封蘭も淡華が彼女の偽名であることは随分と昔から分かっていた。本来の名前を言わないのは、四霊の力で名前を掌握されない為の予防線だった。
この仙女は、誰にも心を許さない。
それでも構わなかった。
封蘭にとって淡華は母にも等しい、掛け替えのない唯一の存在なのだから。
「では、少しばかりお話をしましょうか、泉沈」
「うん!」
封蘭は、大きく頷いた。
恐怖を抱く劉備がどんな表情をしていたかなんて、この淡華の前では至極どうでも良かった。
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