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 落ちた顎が戻せない。

 目の前の光景に、一同は愕然とした。

 ようやく辿り着いた街。
 かつて――――否、出立する前には、そこには確かに城が、街があった。

 されど、今眼前に広がっているのは乾いた荒野。生の気配すら、ここには僅かも残っていない。まるで、最初からここには何も無かったかのようだ。

 関羽は曹操の袖を摘んで、彼を呼んだ。驚き故か、声が掠れてしまった。

 曹操は無言。ただただ目を丸くして目の前の光景を凝視している。
 この中で最も衝撃の大きいのは曹操だろう。
 関羽が背中をそっと撫でてやると、その感触に我に返った彼は大股に前へと歩いた。恒浪牙を呼んで何事か問いかけた。

 恒浪牙は柔和な笑みを浮かべたままだ。……いや、口角がひきつっている。無理矢理に穏和でいようとする姿勢が見て取れた。


「これはまた……彼女も揺さぶってきましたね」

「彼女?」

「四霊達の作り主ですよ。さて……」


 恒浪牙は大股に歩き――――ここに至るまでに身体に魂がある程度は馴染んだようで、比較的足取りがしっかりとしている――――曹操の脇を通り過ぎた。数歩歩いた先で立ち止まり、顎を撫でながら見はるかした。
 暫くそうしていた彼は手を落とし、誰にともなく声をかけるのだ。


「私の前でそのように拙い幻術を用いられるとは、ナメられたものですね」


 出てきなさい。
 静かに、しかし有無を言わせぬ強い口調で恒浪牙は言い放つ。

 ややあって、正面の景色が《揺らいだ》。まるで、水面に広がる波紋のように。
 関羽と夏侯惇、夏侯淵が恒浪牙の隣に並んで得物を構えると、波紋が静まりかえって、うっすらと人の姿が浮かび上がる。

 現れたのは女性だった。
 頭から腰を覆い隠した黒い外套、純白に赤い龍が踊る衣は質が良く、高貴な煌めきを放つ。顔すらも外套から垂らされた絹に隠されて見えない。
 その姿でありながら辛うじて性別が判別できるのは、衣服が女性の物であるが故だ。

 女性はややあって、弱々しい声を発した。


「邪魔をなさらないで下さいまし。これは、天帝のご意志にございます」


 今にも消えてしまいそうなか細い声音だ。
 関羽は一歩彼女に歩み寄った。


「……あなたが、幽谷達を作ったの?」

「幽谷は、偶然の産物にございますれば、私の力で作り上げたものではございませぬ」

「偶然の《産物》だなんてそんな、酷い……」


 四霊の作り主たる女仙は、首を傾けた。


「酷い? そうとしか、言えぬと存じますが」


 悪意の無い、あっけらかんとした言葉だ。

 関羽は二の句が継げなくなった。彼女に幽谷を人として扱えと言ったところで、通用するか分からなかった。彼女にとって幽谷は予定外の産物、生まれる筈のなかった人格でしかないのだ。《個人》として、気遣う必要は一切無い。

 関羽の肩に、恒浪牙の手が乗った。


「無駄です。彼女とこちらの感覚は、全く違う。彼らにとっては幽谷は予期しなかった問題です。人ではない」


 彼は女仙を見据えたまま、目を細めた。


「天帝が人間を全て殺めろと仰ったのですか」

「天帝のお望みは呂布と排除と、世界の浄化にございますれば。妙幻様が要らぬ物と断じられたのであれば、それが正しきこと。我らの望む正義でございます」


 ……正義?
 人間達を殺すことが、正義? 世界の浄化?
 そんなの違う。そんな極端な破壊は正義でも浄化でもない。
 間違っている!
 関羽は声を荒げて女仙を否定する。

 すると女仙は怯えたように身体を震わせて一歩後退した。


「……恐ろしい。地上の生き物はなんと荒々しく、恐ろしいのでしょう。野蛮です」

「…………あなたも、元は地上に生きていたでしょうが」


 呆れた恒浪牙の吐息混じりの声に、関羽は彼を見上げた。
 彼は、この女仙と面識があるようだ。しかも、大昔から。
 問うように彼を呼ぼうとすると、それを遮るように片手を上げて恒浪牙は前に出た。


「あなたも、この猫族の娘さんと同じように、強く主張していた頃もありましたよ。その頃を忘れてしまっただけだ」


 恒浪牙が更に前に出ると、女仙はまた後退した。


「私はあなたが嫌いです、近寄らないで下さい」

「おや、そうなると、あなたが困るのではないですか。私をどうにかしなければ、妙幻を阻める者は完全に排除出来ない」

「どうしてあなたは地仙でありながら、天帝のご意志に背かれるのです。天帝は全てを見ておられます。妙幻様も、私などよりもずっと長く人間達を眺めておられました。尊いお二方の感じられたこと、懸念を否定することは、我らには許されませぬ」

「知りませんね。私は、地仙ですが、この地上に生きる人間ですから。母の胎(はら)から生まれ、今まで暮らしてきたこの世界を守りたい」


 恒浪牙は駆け出した。
 女仙が逃げる前に懐に入って顔を覆い隠す外套の頭巾を鷲掴み、強引に脱がせた。
 か細い悲鳴が上がった。女仙のものだ。

 恒浪牙が跳び退ると、その姿が露わになった。
 関羽はひきつった声を漏らした。

 耳が、あった。
 ぴんと天を向いた耳。

 ……いや、注目すべきはそこではない。
 青い瞳と黒の髪。髪は肩で綺麗に切り揃えられているが、彼女の面立ちには見覚えがあった。……ありすぎる程に。

 夏侯惇もそれは同じだった。


「……砂嵐(しゃらん)?」


 茫然とした彼の口からぽつりと呟かれた人名に、関羽はひゅっと息を吸った。ああ、やはり夏侯惇も同じ人を重ねたのか。

 女仙の顔は、かつて恒浪牙の義妹だった娘に瓜二つだったのである――――……。



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