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「かくも人は浅ましく、愚かしく、脆く――――強く、温かく、可愛らしい」


 そうは思いませんか、夏侯惇殿。
 緩慢な動作で彼は振り返った。
 ふらついた時を考えた夏侯惇がついて来ていることは、随分と前から知られていた。夏侯惇本人も隠すつもりはなかったので、別に負い目などは感じないけれども。

 恒浪牙は夏侯惇に会釈して、近くにあった岩に腰を下ろした。多少歩いただけだと言うのに、彼の顔はすでに土気色だ。魂が人形に馴染んでいないと、たったこの距離を歩くだけでもキツいものがあるのだろうか。

 長々と吐息を漏らした彼は、夏侯惇の後ろを見やって、そちらにも会釈した。

 振り返れば、それは夏侯淵で。
 夏侯惇の隣に立った彼は恒浪牙の顔色に眉根を寄せた。


「……大丈夫なのか? 顔、青白いぞ」

「ええ。時間をかけて移動させなければならないものを、急いで定着させましたから、未だままなりません。時折、神経が上手く働かずに感触が分からなくなってしまうこともございますし、筋肉も強ばっている箇所が多い。心臓も心拍が大きく乱れておりますし、こんな状態では狼牙棒も満足に振るえませんね。動いた方が馴染みやすいのですが、如何せん辛くて辛くて、休み休みでなければ倒れてしまいそうになるんですよ」


 妙幻にあんなにも早く負けてしまうとは思わなかった。
 一瞬の油断を彼女が見逃す筈はないと、分かっていた。この中で妙幻の性格を、その存在の厄介さと凶悪さを誰よりも理解しているのは不本意ながら付き合いの長い自分だけだ。
 そう、自負していた筈だのに。
 後れを取るだなんて思いも寄らなかった。

 予定では、圧され始めた頃に、彼女に呪詛をかけながら近い場所に封印してある人形へじわりじわりと移動を進めていくつもりであった。
 それがあっさりと負けて――――申し訳ないやら、恥ずかしいやら。
 恥ずかしそうに後頭部を掻く。

 元々、魂を別の身体に移動させるつもりではあったらしい。
 夏侯惇は恒浪牙を見つめ、ふと素朴な疑問を口にした。


「人形は一体何体あるんだ」

「そうですねぇ。私の今の身体を含めますと、九十八体ですね。私の命を百に砕いて九十九体の人形に入れ、その上で封印しましたから」

「百体目は、お前の本来の肉体だったのだな」

「そちらもとうの昔に壊れてしまいました。元々、砕いた命のうち、とても小さいものを戻しておりましたので、この人形よりもずっと脆かったですし」

「どうしてそのような真似を?」

「森羅万象、壊れることは絶対的な理です。地仙の知識をふんだんに使用したとは言え、長い時間の果てに朽ちてしまうことも当然有り得ますからね。その保険です。多く作ったのは、そもそもの私の目的がどれ程の時間をかけて達成し得るものなのか、当時の私には不透明でしたから」


 そん時まだ初々しい地仙だったんで。
 まじめとも冗談ともとれぬ言葉に夏侯惇は返答に困った。

 その様を面白がって、恒浪牙は弱々しい笑声をあげる。


「それで、お二人は支度に取りかからなくてよろしいのですか?」

「いや……十三支――――いや、猫族の女達が姿を消したと分かった時点で、いつ出立しても良い状態だった。ここに滞在していたのは、三人が戻るのを待っていたからだ」

「ああ、そうでしたか。いやはや……私が、世平殿に独り言を言わなければ良かったですね。申し訳ございませんでした。考えが及ばなかったようです」


 謝罪の後に、彼はゆっくりと腰を上げた。
 まだ顔色が悪いというのに、急ぐように、苦しそうに歩き出す。一歩、上手く足が上がらずに地面を擦った。

 夏侯惇は夏侯淵を呼び、自身は彼の側にいると告げた。
 この状態で一人にしておくと、少々怖い。誰かが彼の思案を妨害しない範囲で側で支えてやった方が良いのではないかと思った。そしてそれは、夏侯淵には不向きである。

 出立する際には教えてくれと言いおいて、夏侯惇は恒浪牙の斜め後ろについた。

 すると、恒浪牙は何処か嬉しそうに、しかしぎこちない笑みを浮かべた。


「いやぁ、まるで孫と散歩しているような気分です。まあ、あなたは私の息子とは似ても似つきませんが――――むしろこんな子には育って欲しくはなかったですね。もっと視野を広く、大らかな子に育って貰いたかったものです。あなたみたいになってしまったら、……私、毎晩枕を濡らしてしまいます」

「魂が馴染まないと思考もおかしくなるらしいな」

「これでも随分とましな方ですよ」


 否定はしないのか。
 息子がいたことは初耳ではあるが、世平の父性を理解すると口にしていたことから、さほど違和感は感じられなかった。
 ただ、側にいないと言うことは、やはりもうこの世にはいないのだ。
 亡くなったのは、地仙になる前か、それともその後なのか。
 妻もそうなのだろうか――――そこまで考えて、無粋な詮索だと思案を打ち切る。

 恒浪牙の失礼な《独り言》を聞き流し、夏侯惇は、それきり口を閉ざした。

――――けれども。


「魂を移動させる時、いつも思い出すんですよ」


 自分が、あらゆる金持ちを泣かせ、金品を奪って貧しい村々に配っていた頃のこと。
 その時に出会った、混血の娘のこと。

 混血という単語にぎょっとした夏侯惇は、前方に手を伸ばす恒浪牙の虚ろな眼差しに眉間に皺を寄せた。

 彼の眼差しは、まるで幻覚でも見ているみたいな、現実を何も見ていない目だった。



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