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「ぅ、うぅ……っあ゛ぐぅ……!」


 頭を抱えてその場にうずくまる妙幻に、世平は目を細めた。
 何故、何故と苦悶に絞り出す呻きのさなかに誰にともなく問いかける。
 彼女に一体、何が起こっているというのか。
 趙雲と顔を見合わせ、黙って妙幻の様子を眺めた。

 血を吐きそうな程の苦しみように、そのまま死んでしまうのではないかと疑ってしまう。
 だが――――。


「世平、殿……これは一体……」

「分からねえ。だが、今のうちに逃げた方が良さそうだ。趙雲、歩けるか」

「……いや」


 恐らくは本陣に戻るまでには保たないだろう。
 自分の身体のことは自分がよく分かっている。あれだけ容赦無く貫かれた身体だ、今立っているだけでも非常に辛い状態なのだった。
 そう言うと、世平は顔を歪めた。


「世平殿は、先に」

「いや、それは出来ねぇ」


 そこで世平は後ろを振り返る。そして眉間に皺を寄せた。

 その先には関羽と張飛がいる。よたよたと、出来うる限り急いでこの場を離れていた。
 まるでこちらの様子に全く気付いていないかのように、必死に曹操達の元へ戻ろうとしている。
 これはあまりに奇異なことであった。

 あの距離ならば先程の妙幻の声は聞こえている筈だ。だのに、関羽達は振り返る様子も無い。
 彼女なら、こちらを気遣って振り返ることもあるだろうにそれを全くしないのだ。


「……どういうことだ」

「…………、私、が」

「ん……?」


 それは、誰の声だったのか。
 世平は周囲を見渡した。

 気が付けば、妙幻はしんと静まってその場に両手をついている。苦しみは失せたようだ。荒い呼吸を繰り返しながらも落ち着いている。けれども屈辱に激昂する様子も、疑問を繰り返すことも無い。

 ……まさか、とは思うが。
 今の声は妙幻が発した?

 いや、有り得ない。

 確かに女の声ではあったけれども、彼女は間違いなければ『私』と言った。
 妙幻は己のことを『妾』と言っていた筈だ。
 『私』と言うのは妙幻ではなく、幽谷で――――。


――――幽谷で?



『何故汝れが妾を阻める!?』


「……まさか」


 世平は暫し妙幻を見つめ、唐突に歩き出した。
 趙雲が呼び止めるのに片手を振ってこちらに来ないように制し、妙幻の前に膝をつく。

 手を伸ばそうとするとぴくりと肩が震えてほんの少しだけ引いた。

 先程までの妙幻の傲慢な態度など微塵も感じさせない彼女に、世平は心の内で確信を抱いた。
 彼女のうなだれた頭に手を乗せて、問いかける。


「……今のは、お前なのか」

「……」

「《幽谷》」


 びくんと身体が大きく震える。
 息を吸って、彼女は徐(おもむろ)に顔を上げた。

 その目を見た瞬間、世平は自然と口角が弛んだ。安堵が、胸の中にじんわりと広がり緊張を解いた。



 その眼差しは、人特有の温もりを所持していたのである。



‡‡‡




 彼女は開口一番に謝罪した。
 そうして、


「私が、関羽様達が戻らぬように恒浪牙にお願い致しました」

「恒浪牙殿に?」


 死体を見やり、その悲惨さに顔をしかめる。
 あんな有様の彼は地仙と言えども死んでいる。何も出来ない状態の彼に、一体いつ願ったのだろう。
 問えば、妙幻は――――否、消失したとされていた幽谷は「彼についてはじきに分かるかと存じます」と世平の力を借りながらその場に座り込んだ。

 そこにふらつきながら趙雲もやってくる。消えたと思われた幽谷が今表に出ていることに酷く困惑していた。無理もない。

 幽谷は彼の身体を痛ましげに見上げそっと両手を伸ばした。
 趙雲に抱きつこうとでもしているその様子に不思議そうな顔をしながら、趙雲は身を屈める。

 彼の首の後ろへと両腕を回した幽谷はそのまま身体を密着させ、小さく謝罪した。
 直後、全身から放たれた温かな光が趙雲の身体を包み込む。安らぎをもたらすその光に、趙雲は目を伏せ、自然と全身から力を抜く。が、急速に痛みが和らぎ、消えていく感覚にすぐに目を瞠った。

 幽谷が離れ、己の確認すれば怪我は全て失せていた。衣服の穴からは綺麗な肌が覗いているのみだ。


「傷が……」

「あの女ではなく私でいるうちにこの場から逃れて下さい」


 幽谷は、立ち上がってよろめきながら後退した。身体の自由が利かないようだ。歩みが心許ない。
 その上眩暈もするらしい。
 妙幻が幽谷から身体を取り戻そうとしているのだと、漠然と察せられた。

 彼女が表に出ている間に逃げれば安全だろう。
 されど幽谷に戻った今、このまま逃げて良いものだろうか。
 幽谷に従うことはすなわち、彼女を見捨ててしまうことになるのだ。
 それで良いのか?
 本当に、それで――――。


「世平様」


 迷いを見透かしたように、妙幻の姿をした幽谷は世平を強く見据えた。


「時間がありません。あまり長く出ていると、《彼女》のしたことが台無しになってしまう……」

「彼女?」

「……犀華だな」


 幽谷は緩慢に首肯する。すでにその仕種すら辛そうだ。
 世平は目を細めて沈黙した。幽谷を見つめ、やがて身体を反転させる。


「犀華がお前の為だけに使い、遺した力だものな」

「……恒浪牙にお聞きになられたのですね」

「無理矢理な。……趙雲、戻るぞ」

「……分かった」


 世平は何も声をかけずに歩き出した。
 数歩進んだところで、駆け出す。

 それを追おうとした趙雲は、一歩踏み出して幽谷を振り返る。


「質問に答える余裕はあるか」

「何でしょう」

「何故、関羽達に気付かせぬようにした?」


 ……一瞬だ。
 本当に一瞬、幽谷の目が左を見た。
 しかし趙雲が名を呼べば、ややあって、


「関羽様がお気付きになられて戻られれば、私はあの方を見た瞬間に、妙幻に身体を取り戻されてしまいます故に」


 拱手し、「関羽様達をよろしくお願い致します」と幽谷は趙雲を強く見据えた。
 その瞳に込められた縋るような光は、彼女の中が逼迫(ひっぱく)していることを物語る。あれだけ毛嫌いしていた自分にあのような目を向けるのだから、余程のことだ。
 趙雲も、拱手で返して世平の後を追いかけた。



‡‡‡




 その場に誰もいなくなった後。
 幽谷はその場に座り込んで頭を抱えて唸った。
 割れる。頭が割れる。
 まだだ。まだ身体を戻してはならない。まだ、まだ――――彼らが十分離れるまで。

 意識が沈みそうになる度に奥歯を噛み締めて地面に爪を立てて必死に繋ぎ止める。

――――そんな彼女に、突如として声が降ってくるのだ。


「……やれやれ。無駄遣いしちゃいましたねぇ」


 ずる。

 ずる。

 ずる。

 這いずって近付いてくる塊がある。
 それは奇妙な形にひしゃげた手で移動し、顔だった部分を幽谷に向けている。
 幽谷はおぞましいその塊に恐れる風も無く、玉の如き汗を流す顔に苦笑を無理矢理に浮かべてみせた。


「っ……すみません。どうしても、出てこなければ、と……」

「ええ。元はと言えば私がヘマをしたが故に招いた事態です。申し訳ありませんでした」


 幽谷の視界に映ると、そこで力尽きたかのように地面に張り付いてしまう。
 笑っているのか、無惨な体躯が小刻みに震えた。


「いえ……あなたが妙幻に苦戦を強いたおかげで、私も出てこれました」

「そろそろ限界のようですがね。残りは、一回のみでしょう。その時に犀華殿の遺して下さった力を有益に使わなければ、彼女のしたことが真実台無しになってしまう」

「分かっています」


 塊は、つかの間思案し、幽谷を呼んだ。


「私の身体に触れて下さい」

「? ……こう、ですか」


 恐らくは肩であろう部分に手を添えると、身体中に電流が駆け抜けた。

 これは拒絶だ。妙幻が彼を強く拒み、警戒している。

 ……嗚呼、彼女は唯一彼が怖いのだ。
 その気持ちは分からないでもない。
 だが、幽谷にはそれが一つの希望に思えて、頼もしかった。
 妙幻を抑え込みつつ、幽谷は沈黙した彼の言葉を待った。


「……はい、これで呪詛がかかりました」


 さほど長い時間もかけずに、彼は言を発した。


「呪詛?」

「ええ。これを解かなければ、妙幻は力を使えない、使えばその力は犀華殿の力に吸収される。《神の谷の廃墟》でこれをかけるつもりだったんで、術の方はちゃんと完成していたのですよ」


 きっと顔がちゃんと顔として残っていれば、したり顔を浮かべていたのだろう。

 この術を解く為には別の場所に隠した核を破壊しなければならぬ。
 核とは、砕いて各地に散りばめた私の命の一欠片のうち一つであり、簡単に壊されないよう術が施してある。それを壊す為には、必然的に力を振るわなければならないのだ。
 何処か楽しげな塊はそこで軽く呻いた。


「……大丈夫ですか」

「ああ、すみません。この《身体》は……もう駄目ですね。そろそろ、私はお暇します。……また後程、お会いしましょうね」


 「あなたも戻りなさい」彼はそう言って、砂塵と化した。

 それを見つめる幽谷も、瞑目してその場に崩れた。
 意識が混濁する。混ざり合い、濾過され、器の奥へと乱暴に追いやられる。
 激昂する彼女の意識に恐怖を抱きながら、ただただひたすらに関羽達の無事を祈り続けた。

――――意識が遮断されるその時まで。



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