12
爬虫類のような左手をした、言葉に表せない美貌を備えた女性の体躯には、一部に鱗が生えていた。虹色の高貴な煌めきには見覚えがある。
それに加えて、赤と青の色違いの瞳にも、鱗以上に馴染みがあって。
関羽も世平達も、愕然としてその女性に見入ってしまった。
女性はそれを鬱陶しそうにしながら、恒浪牙だった肉塊を蹴飛ばす。それは地と肉を撒き散らしながら宙を飛び、どしゃっと離れた場所に転がった。
女性は恒浪牙の遺体を憎らしげに睨んで鼻を鳴らした。
「ほんに……何処まで妾を揶揄すれば気が済むのだ」
「お前は、妙幻だな」
「名を呼ぶことを許した覚えは無いが?」
趙雲が前に出、関羽達を背に庇う。大剣を構えていた。
女性――――妙幻は風に靡く青を孕んだ銀の髪を押さえながら顎を僅かに反らして趙雲を見下す。この妙幻、器が幽谷の身体の割に身長が非常に高い。趙雲よりも、最低でも頭が二つ分は高い。
本来の身体がそうであるが為に、器が近い形に成り代わったのだろうか。絶対的な空気をまとう彼女のその身長に違和感は全く感じない。むしろ雰囲気を助長する。
妙幻は趙雲を品定めするように見つめ、ふっと小馬鹿にしたように紅唇を歪めた。
「惰弱よのう。その程度の男が、妾に刃を振るうなど……余程の愚鈍か」
「なに……」
妙幻が瞬きする。
その刹那。
……趙雲の手にした大剣が、どろりと溶けてしまったのだ!
まるで灼熱を当てられたかのような融解物に趙雲は驚愕に色を失った。地面に落ちるのを絶句して見下ろす。
粘着質な液体と化した得物はしかし熱を持たない。異質な光景に畏怖が沸き起こる。
彼の脳裏に過(よ)ぎったその不安は、無理もないことなのかも知れなかった。
自分達はこの場から逃げることが出来るのか――――。
人類に無い物全てを備えた有り得ぬ存在を前に、その可能性は限り無く低いように思えた。
これが、幽谷だったというのだろうか。
本来生まれる筈の無かった幽谷に長い間抑えられていた存在だというのか。
信じられない。
趙雲の、生き物としての本能が理性に警告する。
この女は危険だと。
清らかで、残酷だと。
近付くことも許されない領域の住人の彼女に、どうして自分達が近付けようか。
関羽達を盾にして、逃げてしまえ。
そんな囁きが、頭の片隅から聞こえた。
けれども理性がそれを斬り捨てる。
そう、そんなことが出来る訳がない。そうなれば絶対に後悔する。自分を許せない一生を過ごすのみだ。
剣が無いなら体術を――――半身を引いて腰を低く沈めると、妙幻はつまらなそうに腕組みし、右足に重心を置いた。警戒も何もしていない、まさにのんべんだらりとした態度は、彼女が自分達が脅威でも――――否、相対する存在ですらないと認識していることを如実に表していた。
「妾に、汝れらと遊ぶ暇は無いぞ」
「ならば、見逃してくれるとでも?」
「見逃すも何も、ただの塵芥(ちりあくた)の何を敵と見なし、逃す逃さぬを思案すると言うのか。汝れらにその価値を感じぬだけのこと。これ以上無駄なことに無駄な力を使いとうない。妾の気が変わらぬうちにはよう失せよ」
趙雲は目を細めた。
人間のことを何も知らない、知ろうともしない四霊に見下されるのは腹立たしい。こんなものを、瑞兆だと崇めていた自分達が何とも愚かしい。
こんな神聖とは懸け離れた惨たらしい性分の瑞獣が、天帝の乗る天馬(てんま)を生む生き物だとは思いたくもなかった。
……けれども。
今ここで見逃されることはありがたいことだ。
何事も無く逃げ出せるのなら、己の感情など無視してそれに縋りつかなければならない。
ここには、自分だけではなく、関羽や張飛、世平がいるのだから。
妙幻の気が変わってしまわぬ前にと関羽を呼ぼうとした彼の口はしかし、声を発することは無かった。
「何、だよ……それ!」
張飛が憤然と趙雲の前に出てしまったのだ。
咄嗟に肩を掴むも振り払われてしまう。
息巻く張飛は眦をつり上げて妙幻に噛みついた。
「ゴミだから、んな価値も無ぇって? 勝手なこと言ってんな!! オレ達は――――」
ぱんっ。
乾いた音がした。
何か、何か赤い物が張飛の右肩で爆発したように思う。
勢い良く周囲へ散っていく物は何だろうか。
先程見た物と酷似しているしているような――――。
「いやああぁぁぁ!!」
「張飛!!」
まるで一枚一枚の絵を見せられているかのようにゆっくりと倒れていく張飛に、趙雲は手を伸ばした。
だがその手は服を掠っただけ。
彼は地面に倒れて右肩を押さえる。痛みに顔を歪めて転がる。
指の合間からはどろどろと、転がった際に土が混じってしまった血が止め処無く溢れ出ていた。
「身の程を知れ。猫族如きが妾を責譲(せきじょう)しようなど許されぬ」
秀麗に過ぎた顔が不機嫌に染まる。
趙雲は嗚呼、と心の中で嘆いた。
これは、いよいよ危険である。
早く逃げようと張飛に駆け寄ろうとすると、地面に貯まった趙雲の大剣であった物がゆらりと揺らめいた。
「何――――」
何かが飛び出し、腹を貫く。
「が……っ!?」
「趙雲!!」
それは立て続けに飛び出しては趙雲の身体を容赦無く貫通した。
苛烈なそれらは姿を認めることすら出来ない。趙雲が膝を付くまで、出現は止まなかった。
関羽が趙雲の横に屈み込んで、前のめりに倒れそうになる身体を支える。
世平が前に立って得物を構えた。
「……関羽、張飛と趙雲を連れて逃げられるか」
「世平おじさん!?」
「せい、へい……ど、」
「喋らなくて良い。ここは俺が残る。どれだけの時間が稼げるか分からねぇが……出来るだけ遠くへ逃げろ」
「そんな……! そんなことしたら世平おじさんが!」
無事では済まない。
世平は「構わねぇよ」と。妙幻を見据えて目を細める。
「お前ら共々ここで死ぬよりは良い」
「で、でも……」
「……俺も、ここに……残ろう」
「趙雲!?」
「お前は……張飛と、逃げるんだ」
どちらにしろ、こんな身体では満足に走れない。
なれば、ここに自分は残って関羽と張飛だけでも無事に逃がそう。
ぎこちない笑みを関羽に浮かべて見せた趙雲は、関羽を退けて雄叫びを上げた。声によって痛みを誤魔化し、渾身の力を振り絞って立ち上がる。
ふらりとよろめきながら世平の隣に立った。
「……大丈夫か」
「っああ……。盾は……一つよりも、二つある方が、良い」
関羽を呼ぶと、彼女は躊躇った。
だが世平が怒鳴れば竦み上がり躊躇を見せつつも苦痛に唸る張飛を立ち上がらせて急ぎ足で元来た道を戻り出す。泣きそうな顔をした関羽に、世平は笑ってひらり、と片手を振って見せた。
妙幻は馬鹿馬鹿しい茶番を見せられたとでも思っているのか、興醒めした風情でこちらを眺めていた。
「汝れらなどすぐに殺せる。あれらを追う必要も無く全て殺すことも可能であるのだがな」
「だろうな。だが、俺は関羽の親代わりなんだ。張飛も、昔っから可愛がってる。みすみす殺させるようなことは出来ねぇんだ。可能性がある限り、何としてでもお前を止める」
「暑苦しい男よな。あれの子孫故に殺すつもりはなかったが……邪魔立てするならば消すまでだ」
手を前に突き出し、何事か呟き出す。
それに身構えた世平は、その時妙幻の背後に金色の靄のようなモノが現れたのに怪訝な顔をした。
――――直後である。
「……!?」
妙幻が目を剥いた。
そして頭を押さえて苦悶の声を上げる。
驚愕に彩られた顔して天を睨め上げた。
「何、だと……っ、何故、何故だ!!」
何故汝れが妾を阻める!?
怒りとも苦痛とも取れないその唸りは、やがて悲鳴へと変わった。
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