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 世平は走った。
 袁術より妙幻覚醒の報せと、恒浪牙からの伝言を伝えられた曹操は即座に陣を退く準備を始めた。打って出ようとはしない。今の状態では十分驚異であると、袁術から聞いた恒浪牙の様子から察したのだろう。
 袁紹軍との戦いで消耗した軍で下手に迎え撃つことは避けた方が良いとは、世平も思ったことだった。
 このまま帰還することに異論は無かった。

 けども、恒浪牙のあの独り言が頭の片隅によぎって世平に行動を促す。
 もし恒浪牙の予想するようなことが起きるなら、今のうちなのではないだろうか。
 危険は承知の上だ。
 だからこそ単身妙幻達のもとに向かっている。
 誰にも言わず、運良く戻れた時の言い訳も考えずに。
 先刻まで人々が殺し合っていた場所をひたに走り抜けた。

 いるとすれば袁紹軍の本陣だろう。
 間に合え、と懇願にも似た強い思いに背中を押されるように、彼は走る。

――――が、


「世平おじさん!!」

「おっちゃん!」


 唐突に後方から聞こえてきた声に、舌打ちが漏れた。
 足を止めて振り返れば、関羽と張飛、それに趙雲までが世平を追いかけてきていた。
 何の為に無言で出てきたと……!
 頭を押さえて奥歯を噛み締めた。


「世平殿。軍はもう撤退を始めている。一体何処に行かれるつもりだ」

「幽谷――――いや、妙幻に会ってくる」


 三人が一様に驚いた。
 揃って止めろと言う。

 されど世平に帰る意志は無く。恒浪牙の独り言に縋ってでも、幽谷を救ってやりたいのだ。よしや、彼女の自我こそが許されざる人格であったとしても。
 猫族と過ごしたのは、四凶でも四霊でも妙幻でもない。
 幽谷なのだ。

 三人だけに早く軍に戻るように言ってまた駆け出した。

 が、それでも聞かないのが関羽達。


「待って! わたし達も行くわ!!」

「関羽! 妙幻は危険だと恒浪牙殿から聞いただろう!! 良いからここは俺に任せて戻っていろ!」


 止まらない世平を追いかけて、関羽が声を上げる。
 関羽は危険ならば尚更ついてくる――――分かってはいるが、本当に彼女らを連れて向かう訳にはいかなかった。これは一か八かの賭でしかないのだ。下手をすれば妙幻に諸共殺されてしまう。
 それなのに、娘同然の関羽や、張飛らを同行させることは絶対に出来ない。

 何を言っても戻ろうとしない彼女らに、世平は焦れて再び足を止めた。
 振り返って一喝すると関羽は肩を縮める。


「関羽……お前はまだ腕の傷が癒えてない。そんな状態で妙幻に会わせられるか。それに、お前の母親には封蘭が良い感情を抱いていない。劉備様がどんな状態にあるのか分からない以上、真っ先に狙われる可能性もある。俺が妙幻に会うのは、何も戦うことが目的じゃねぇ」

「戦わねえって……おっちゃんあいつらに会って何をするつもりなんだよ」

「少し、確かめたいことがある。それを確かめればすぐに逃げて戻ってくるつもりだった」


 だから、お前達は戻れと言えども、関羽は首を縦に振りはしなかった。
 妙幻は危険極まる存在だ。彼女から逃げることは容易ではない。


「やっぱりわたしも行くわ。世平おじさん一人では行かせられない」

「オレも行く!」

「俺も行かせて欲しい。逃げると言っても、多少の戦闘は免れないだろう」


 こめかみを押さえて唸った。

 どうするべきか――――当然ここで帰すべきだ。
 だがこの関羽はどうあっても譲らないだろう。おまけに幽谷絡みとなれば趙雲も、張飛も引かない。
 言葉を尽くしたとて頑固に拒まれるだけだ。
 時間が無いのに、少しの時間も惜しいのに。

 頭痛を覚えて舌を打てば、不意に後方で不快な音が生じた。
 今まで世平が向かおうとしていた方向だ。

 一足先に音に気が付いたらしい趙雲が何かを認めて眉根を寄せた。

 世平も振り返って――――仰天した。


 手だ。
 何も無い宙から、赤く染まった手が現れていた。



‡‡‡




 それはよく見れば宙に生まれた亀裂から突き出しているようだ。
 だが、有り得ない。

 そこには透明な壁があるとでも言うのか。
 そこに亀裂が入るような物があるとでもいうのか。
 殺伐のした景色の中に浮き上がったそれらは異質だった。

 近付こうとする趙雲を制し、世平はゆっくりとそれに歩み寄った。
 誰のものなのか見定めるように、目を細めて凝視しながら。

 手はぴくりとも動かない。まるで作り物だ。
 そこにあるのは本物と見紛う一枚の絵で、立体的な手があたかも宙に走った亀裂の中から抜き出ているかのように張り付けられている。
 そんな奇特な芸術家が生み出した作品であれば――――。

 ああ、何を言っているんだ、俺は。

 これは現実だ。
 逃避出来ない事実だ。

 世平は緩くかぶりを振って、意を決しその手を掴んだ。関羽が世平を呼んだが、構わずに引っ張り出す。

 亀裂が長く、広がる。
 手首の先が大きく開いた亀裂の向こうからずるりと現れ、乾いた地面に崩れ落ちた。

――――悲鳴。

 関羽がその場に座り込んだのが分かった。
 だが彼女を気遣う者は誰もいない。
 そんな余裕が無いのだ。

 亀裂から世平が抜いた手の主は、彼らの良く知る人物だったから。


「……恒浪牙殿」


 全身を膾(なます)切りにされ、無惨に開かれた腹からは内蔵の失われた中身が見える。手足はありとあらゆる方向に曲がり、ねじ曲がり何処が関節かも分からない。頭も陥没し、目も当てられない程に変形してしまっている。
 血にどす黒く染まった衣服が無ければ、これは恒浪牙ではない、よく似た人物だと逃避することも出来ただろう。

 かの地仙が、こんなにも惨たらしい有様で、奇異なる亀裂から現れた。
 一体誰がこんなことをしたのか。
 考えずとも分かる。


「あ、あいつ……!!」

「妙幻がやったのか……っ」

「……だろうな。それ以外に思い当たらねぇ。恒浪牙殿は妙幻に接触する為に陣を飛び出した。……返り討ちにされたと考えるのが妥当だろうな」

「そ、んな……恒浪牙さんまで!!」


 関羽が甲高い声で叫んだ直後だ。


「――――ほんに五月蠅い女よな。下賤」


 耳が腐る。
 涼しい、鈴の声が聞こえた。



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