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 古に、狐狸一族(フーリ)が存在する。
 天下泰平の世に現れると言う瑞獣九尾の狐、その末裔の彼らは人間達の前に一切姿を見ない。
 滅んだのか、はたまた人間に見つからぬようにひっそりと暮らしているのか――――。

 空狐、天狐なども混じって暮らす狐狸一族は、一書に『神の一族』とも謳(うた)われた。
 狐の耳に九つの尾を持つ人間の姿をした狐狸一族はあらゆる自然を操り、あらゆる事象を予測し、かつ変化させる。
 類稀なるその力は、すでに神の領域に達していた。
 そんな一族が本当に存在しているのか、ただのお伽噺であるのか、それを知る人間はいない。

――――そう、《人間》は。



‡‡‡




 岩ばかりが浮遊するその真っ青な空間に、その女は立っていた。
 薄く青を孕んだ銀髪を脹ら脛にまで垂らし、艶めかしい肉体を惜しみ無く晒した彼女は、神と見紛う程に美しい。切れ長の、赤と青の瞳は岩しか見えぬ前方を睨みつけ、柘榴よりも真っ赤な唇は引き結ばれている。
 ただ――――腕から肩口に張り付いた、淑やかな虹色の虹彩を放つ鱗と……三本指の爬虫類を彷彿とさせる左手が異様だ。
 彼女――――妙幻は不愉快そうに柳眉を顰め、舌を打った。

 どうして自分がここにいるのか。
 自分をこの《神の谷の廃墟》に連れて来れる者など、人の世には一人しかいない。
 しかし、彼女はその一人に後れを取るとは全く思っていなかったのだった。

 ええい、忌々しい。
 ただでさえ、あの飄々とした態度が気に食わないのに、こうも簡単に奴の術中にはまってしまったことが何とも腹立たしい。
 滅多なことでは本気を出さぬくせに……汚らわしい人間に味方をして本気を出すというのか。


「なんと小賢しく愚かしい地仙よ。人の世に狂(たぶ)りよって……」

「狂っているのは、そっちでしょう」


 妙幻は身体を反転させた。そうして、不快に顔を歪めるのだ。

 そこには細目の青年が立っている。
 柔和な笑みを浮かべながら、その刃のような目は冷めきっている。妙幻の存在自体を軽蔑するように。


「……カダ」

「恒浪牙です。本当に物覚えが悪いですねぇ。そのスッカラカンな頭には何も詰まっていないんでしょうか。いやぁ、応龍と言う存在について改めて考えなければなりません」

「その口で良く言うわ。あれの穢れを集めるだけの下賤め」

「ああ、すいません。あなたはどうやら下賤の言葉の意味すら分かっておられないご様子。本当に、全く救いようが無い瑞獣も、いるんですね。これは世も末だ」


 にこやかに冷たく、妙幻を侮辱する。

 妙幻は片手を薙いだ。
 直後――――音も無く恒浪牙の身体が膨れ上がる。爆ぜた。
 飛び散った肉片は妙幻にも飛来したが、結界を張ることで弾き、消した。

 されど恒浪牙の気配は全く消えなかった。
 この空間の《使い方》は、妙幻よりも恒浪牙がよく分かっている。この空間の中では妙幻が圧倒的に不利だった。


「あの男……ほんに腹が立つ――――」


 刹那。
 背後に強烈な殺気を感じて妙幻はそこから飛び退いた。

 半瞬後にそこへ叩きつけられたのは狼牙棒。あれが当たっていれば、この器の頭は無惨な形になっていたことだろう。
 恒浪牙は、呂布にも劣らぬ怪力の持ち主である。滅多に戦うことが無い為それを知る者は少ない。あの呂布でさえ、天仙並に術に秀でているとしか知らなかった。

 嘗(かつ)て人間だった彼は、怪力と人柄の良さから自身が率いた山賊のみならず、周囲の山々のそれらをも束ねる頭領だった。医学に通じていたのもその頃からである。
 今ではもう見ることの叶わなくなった狐狸一族の混血と夫婦となったのをきっかけに、己の右腕に後のことを頼み、近くの村に居を構えた。彼の統率していた山賊は義賊。村々を襲いもしなければ、弱者を恐喝することも一切無かった。

 狐狸一族と交わったことから、恒浪牙の人生は変わったと言っても良い。
 妻が、彼に地仙となる理由を押しつけたのだ。

 そして、今。
 彼は哀れにも妻が世界中に捨てた《記憶》を集めて回っている。
 無駄なことだのに、飽きもせずに何百年も何百年も。


「汝れも奇異な者よのう。もう諦めてはどうだ。あれが拒絶しているのだ、もう集める必要もあるまいに」


 狼牙棒を振るい、恒浪牙は居住まいを正す。
 鋭利な眼差しで妙幻を睥睨し、笑みを消した。


「私が嫌なんでね。それに最後の一つなんです。大事なところなので、諦める訳には参りません。……アホなてめぇにゃ一生分かる筈のないものだろうがな」


 恒浪牙は狼牙棒を構えて妙幻に肉迫した。
 大きく横に一閃。
 妙幻には掠りもしない。

 恒浪牙が術をかけたその狼牙棒は、妙幻の力で変幻させられない。
 何もかもが妙幻の癇に障る男だ。


「この空間に我を連れ込んだのは、確実に妾を殺す為か」

「ええ、そうです。あなたは殺すつもりで行かなければ厳しい。殺せずとも、この空間を閉ざして半永久的に閉じ込めてしまえれば、その器が朽ちるだけだ。あなたはこの空間で精神のみでさまようことになる」


 《神の谷》――――嘗て、瑞獣九尾の狐の子孫狐狸一族が暮らしていた異空間。
 そこへの往来が許された恒浪牙ならば空間を操ることも出来るだろう。
 ほんに、小賢しい男だ。
 人間に味方して、何の徳があろう。
 このような世界で積んだ功徳は芥(ごみ)だ。穢れでしかない。

 人間の浅ましさを知っていながら、どうして人間に肩入れするのか理解に苦しむ。
 妙幻は舌打ちして、片手を振るった――――……。



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