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袁術は不穏な気配を感じた。
自分にそんなものを感じ取れるとは到底思えないけれど、このうなじに走るぴりぴりとした感覚は、とても不快だ。とても剣呑な……無視してはならない気がする。
紀霊に袁紹の監視を任せ、彼は本陣の中を歩き回った。
何処からその気配が放たれているのか、はっきりとは分からない。
ただ歩き回っているうちに出所が分かってくるかもしれないので、同じ場所を通らないよう、適当に道を選んだ。
ただの杞憂であれば良い。やはり自分の気の所為だったと楽に片付けられる。こんな訳の分からない状況だ、己の思う以上に感覚が過敏になっているのだと結論づけられる。
ただでさえ、今までの価値観を覆す色んなことを頭に詰め込まされて頭痛を覚えているというのに……これ以上厄介なことは勘弁して欲しかった。
自分達が凶兆と排他していた四凶が本来は天仙に生み出された四霊であること。
自分達が金眼の子孫と伝えていた十三支が本来はその金眼を倒した英雄であったこと。
そして今、自分達を取り巻く逼迫(ひっぱく)した環境――――。
何もしなければ死ぬ。
だが、何をしても死ぬ確率は高い。
相手は幽谷――――否、瑞獣(ずいじゅう)、応龍。
かの黄帝(こうてい)に直属し、蚩尤(しゆう)との戦いを支援したと神話に聞く。ただ、その時応龍は殺生をしたことで邪気を帯びてしまい、天へ戻ることが出来なくなってしまった。応龍は老いれば黄龍と呼ばれるし、あの応龍と全く違う存在だろう。
加えて、あの生意気そうな十三支の四凶も、同じく瑞獣の霊亀であるという。
神に近い存在を自分達人間は蔑み殺していた事実に、袁術でも身震いがする。
抵抗、出来るのか?
永遠を生きる天仙などに比べれば自分達は矮小な存在に過ぎない。
まして相手は四霊が二人、そして金眼の力に囚われた十三支の長が相手なのだ。
地仙一人しかいないこの軍が、どうして勝てる?
……いや、いや。
しかし。しかしだ。
自分が戦わなければ自分達が守った僅かな民も殺されてしまう。
彼女らに、小さな子供までもを汚らわしいと、芥(ごみ)のように殺される。
それを、オレは許せるか?
――――答えは否だ。
自分の民を汚らわしいと言うことも、殺されることも、自分の矜持が許さない。
許さないなら、戦う他無い。
何か――――何か方法がある筈だ。
あの女に立ち向かう方法が。
この何も無い手でも、民を守れる方法は何だ?
考えろ、考えるんだ。
オレの軍には紀霊がいる。曹操達も利用すれば良い。
気配を探しながら、自分の手元にある手札を整理しよう。
そう思考を切り替えようとした直後である。
背後に強烈な熱気を感じた。
ぎょっと振り返った直後に彼が見たのは。
まるで透き通った衣のような紅蓮の炎であった。
‡‡‡
呑まれると、死ぬと身体を強ばらせた彼の前に誰かが入り込んだ。
刹那、何かに紅の衣が弾かれてしまう。
ゆったりとした衣装を靡(なび)かせてそこに仁王立ちしたその人物は、片手を振って指を鳴らした。
紅の衣が霧散する。
それに、肩を落とした彼は、徐(おもむろ)に袁術を振り返って、柔らかな微笑を浮かべた。
「お、お前……」
細い目をしたその青年は、自分よりも途方もない時を生きた存在である。
「覚えのある気配が《降りて》来たなと思えば……彼女は本当に、妙幻の好きにさせてあげたいんですね」
再び片手を振るえば握った手の中から何かが伸びる。細長いそれは上で膨れ上がり、無数の棘を生み出した。
狼牙棒だ。
それを構えて腰を落とした彼の前に、再び炎が生まれる。
「お久し振りですね、赫平(かくへい)」
『……恒浪牙。何故あれと妙幻の邪魔をする?』
「その前に姿見せろやクソガキ。こちとらあっちぃんだよ。服燃えんだよ」
粗雑な口調に、炎が揺らぐ。
ややあって炎が無数の花弁のように舞い散った。
ぺたり、とその中から足が現れ前へ前へと進み出る。
それは、少年だった。
真っ赤な髪は襟足で跳ね、同じく真っ赤な眼差しは大きく丸い。
女にも見える中性的な面立ちは、稀(まれ)に見る程に秀麗だった。
それこそ、人には絶対に到達し得ない芸術品だ。
赫平は袁術を一瞥し、恒浪牙を見やった。
「随分と機嫌が悪いな……。まあ、良い。お前とてあれが気になるだろうに、意味が分からん」
「そりゃあ、彼女のことは気になりはするけど、だからといって人間が滅ぶのは許せる筈が無いじゃないですか。君達と違って、庶民派なんですよ、私は」
「人間は欲にまみれて汚い。お前はそれを目の当たりにしている筈だ」
「呂布に比べればまだ、《カワイゲ》はありますよ。《カワイゲ》は。呂布と違って、人間は馬鹿な生き物だからね。その分憎たらしく感じない。少なくとも私は。私にしてみれば、天仙の方が性格に難があると思いますよ」
肩をすくめ、恒浪牙は飄々と言ってのける。
それから思い出したように、
「そう言えば、あなたの対はまだ見つからないのですか? 犀煉の身体から出て行った後、捜していたんでしょう? 進展は?」
「無いな。だが、まだ全てを捜した訳ではない。お前も、何か手がかりは無いか」
「いいや。こちらもまだ。もしかすれば、この世に在らざる場所に、器ごと紛れ込んでしまったのかもしれません。確か、《あの子》の生まれた村は近くに歪みがあった筈です。四霊として感覚の鋭いあの子が気にならない筈はない」
赫平は緩く瞬きし、腕組みした。
「そうか。そろそろ、お前が何か掴んでいるかとも思ったのだが」
「……それがここに来た目的であるのなら、彼を殺そうとする必要は無いのではないかい」
「いや、なに。それが我らを倒す気になったのが少しばかり不快だったのでな。仕置きでもしておこうかと。それと、それも目的の一つだが、もう一つ、妙幻の様子を見てきたついでにお前に報せておこうかと思ってな」
妙幻が、完全に覚醒したぞ。
赫平は言って、用事は終わったとばかりに炎に呑まれた。ゆらゆらと揺らめき、風に攫われて消えていく。
全てが消えた後に、恒浪牙はやおらその場に座り込む。
「ああ、やっぱり早い……」
「お、おい……妙幻って確か応龍の名前だったよな。そいつが覚醒したってのかよ」
「……すみません。今から私は妙幻のもとに参ります。多少の時間稼ぎは出来ると思いますし、皆さんは早々にここを離れて下さい。曹操殿にもその旨を至急」
早口に言って、恒浪牙は立ち上がった。
狼牙棒を振るって霧散させ、袁術に拱手する。そのかんばせは堅く強ばっていた。その頬に伝うのは汗だ。
駆け出す恒浪牙を暫く見送った袁術は、やがて弾かれたように走り出した。
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