犀煉の眠る天幕を訪れた恒浪牙は、騒がしい中に眉間に皺を寄せた。
 確率は低い筈だったのだが、どうやら彼は起きてしまったらしい。まだまだ休んでおかなければならないと言うのに……。

 天幕に入って犀煉をキツく呼べば、張飛と世平に押さえ込まれた犀煉が憎らしげに恒浪牙を睨みつけてきた。蒼白なかんばせには、怒り以上に疲労が色濃く映っている。相当暴れたのだろうし、身体を起こしているだけでもかなりの負担だろう。
 この状態で外に出させる訳にはいかない。

 恒浪牙は世平達に謝辞を述べて犀煉の前に片膝をついた。
 噛みつかんばかりの手負いの獣のような彼を諭すように、穏やかな声音で話しかけた。


「犀煉。気分はどうです」

「そんなことはどうでも良い。妙幻達は何処に行った。袁紹軍の本陣か」

「今はまず、調子を整えなさい。妙幻達と戦うことは止めないけれど……その状態で行ったとしても封蘭にすら敵わないだろう。……いや、何も出来ずにその辺で野垂れ死ぬのが関の山だ。四霊を追い出した不安定な器で、覚醒をしたのだから。それは君が一番良く分かっているだろう?」

「聞こえなかったのか。俺の状態などどうでも良い。これ以上犀華の遺体を弄(もてあそ)ばせる訳にはいかぬ」

「そもそも、幽谷を生んだのは犀煉だ。だからこそ、君が一番腹立たしく思っていることは分かるけれど……医学の心得のある人間からすれば、せめてあと二日程度は休んで欲しいなぁ」


 犀煉も四霊の器として、強い回復力を備えている。二日もすれば本調子に近い状態にまで持ってこれる筈だ。そこまでは我慢して欲しいところではあるが……彼の様子を見るに、そこまで悠長にしていられないとでも言わんばかりだ。
 彼の中でもっとも腹立たしいのが弱い自分の精神であるが故に、焦りも助長していても立ってもいられないのだろう。

 何とか説き伏せて神妙に休んでもらいたい恒浪牙は、最初こそ穏やかに、辛抱強く言葉を選び続けた。

 けれども――――全く折れる気配を見せてくれやしないので。


「世平殿、張飛さん。その子、もう少し押さえ込んでて下さいね」

「え? あ、ああ……何をするつもりだ」

「こうするん――――だよっ」


 刹那。
 恒浪牙は足を振り上げ犀煉の脳天に踵を叩きつけた。

 手加減を一切していないその一撃に犀煉の頭は地面に叩きつけられ、鼻骨の折れた音がした。
 そこへすかさず懐から取り出した札をうなじに張り付ける。

 悔しそうに呻く犀煉は抵抗しようと恒浪牙に手を伸ばす。が、さらりとかわされ、力無く落ちた。
 昏睡する犀煉を見下ろし、恒浪牙は長々と吐息を漏らした。


「良い歳こいて駄々こねてんじゃねーよクソガキ。札もそんな数ねぇってのに無駄遣いさせやがって……股のもん切り落として去勢させっぞ、ドンカス」

「「……」」

「――――とまあ、有り難うございました。いや、犀煉がお世話をかけてしまって申し訳ありません。方術で、数日目覚めないようにしてありますのでこれで大丈夫です」


 打って変わった朗笑を浮かべる恒浪牙に、張飛は完全に怯んでいる。犀煉を放し、青ざめてじりじりと後退した。

 世平も呆れているのか、髪を掻き上げながら頬をひきつらせた。


「……その度々出てくる口調は、止めてもらえねぇか」

「ああ……すいません。どうもこの頃、苛々しっ放しでして。色々考えていると、どうしても余裕が無くなってしまうのですよ。いや、お恥ずかしい」


 たははと笑って後頭部を掻き、犀煉の姿勢を正してやる。
 鼻から血が出ていたが、すでに止まっているだろう。明日になれば鼻骨も元通りだ。
 今日はこのまま犀煉の看病でもしていようかと彼の側に腰を落ち着かせると、世平が張飛を呼んだ。


「張飛、お前は戻ってろ。俺はここに残る」

「え? いやいやでもさおっちゃん、」

「おや、構いませんよ。あなた方も休んでおかねば――――」

「訊きたいことがある」


 そう言って、彼は座って張飛を促す。
 張飛は渋りつつも、恒浪牙が気を利かせて関羽の様子を見てきて欲しいと言うと、大人しく天幕を出て行った。
 まあ……そろそろ、張飛が行っても大丈夫だろう。それだけの時間は経過している。これで拗(こじ)れてしまっていても、もう知らない。

 張飛を見送って世平を見やれば、彼は一旦目を伏せた。やおら瞼を開いて、


「封蘭と幽谷のことだ」

「封蘭についてはあなた方の中で結論を出すべきです。他の猫族の方々にはお話ししたのですか?」


 世平は首肯した。
 反応を問えば、大部分が未だ半信半疑だそうだ。それも、当然のことか。封蘭が生まれたのはもう百年以上も昔のことだし、きっとあの歌以外封蘭について伝える猫族はいなかっただろう。


「封蘭の憎悪は、猫族に対してのみではない。けれども、彼女から最初に居場所を奪い、彼女の存在を否定したのは同族であるあなた方の先祖だ。子孫だから関係ない――――彼女にとっては、そんなのは問題じゃない。もう、猫族自体が憎いんです」


 存在を否定したのなら、自分は彼らの存在こそを否定してやる。
 猫族も人間も、否定する。消してやる。
 けれども、彼女が一番望んでいることは別のこと。


「少し意地悪な質問ですけど、封蘭が本当に何をしたいのか、あなたには分かりますか?」

「俺達に復讐したいんじゃねぇのか?」


 恒浪牙は緩やかに首を左右に振る。


「封蘭は、本来は争い事を好まない、優しい子なんです。それが、この百年で大きく歪んでしまった。……いや、生じた歪みがそれを覆い隠してしまったのかな」


 彼女が本当に望んでいるのは、《己の消失》だ。


「死にたくても死ねない弱虫な彼女は、早く役目を終えて消えたいんです。自分の内外全てから解放されることこそ、彼女の本当の願い」


 本来臆病な少女であるから、死を選べない。自害が出来ない。潔い終止符を打つことが出来ない。大いなる災いに立ち向かうことが出来ない。
 だから、他の四霊を頼みにすることしか出来なかった。
 ただただ蔑まれながら待つことしか出来なかった。
 臆病故に、何もかもが出来なかった彼女は、彼女の取り巻く全ての事象から解放されたかった。


「私にも、あなたにも、封蘭がどれだけ苦しいのか分かりません。説得するなら、やり直したいと思うのであれば、安易な言葉は選んではいけません。ちゃんと皆でお考えなさい。封蘭には、その場限りで取り繕った偽善は通じない。生半可な気持ちで対面して良い程、募った憎悪は弱くありません。そうするくらいならいっそそのまま何もせずに消してあげて下さい。――――殿を忘れたまま」


 最後だけ囁くように言う。

 世平は片目を眇めた。


「……どの? 今、人名を言ったのか」

「いいえ、何でもありませんよ。お気になさらず。……ええと、次は幽谷のことでしたか」

「……ああ。あいつは本当にもう、どうにもならねぇのか? 地仙のあんたなら、何か……」


 恒浪牙は顎を撫でた。

 正直言えば、可能性は……無い訳ではない。
 けれどもそれは恒浪牙が微かに感じただけで、気の所為で済まされることかもしれない。
 確証が無いからこそ、あの場では言わずにおいたことだった。

 しかし、ああ言って敢えて自分にまたその相談をしにくる世平も、余程幽谷のことが大切だったらしい。真摯に、恒浪牙に乞うてくる。
 ……さて、どうしたものか。


「こう言ってもあんたには嘘っぽく思えるかもしれないが、あいつは俺にとっては娘みたいなもんなんだ。どんな些細なものでも良い。可能性があるのなら、教えてくれ。……頼む」


 両手をついて額を地面につける。

 恒浪牙は沈黙した。
 探るように世平の頭を見下ろし、思案する。

 暫し、重たい沈黙が横たわっていた。

 やがて――――。


「これは、ただの老い耄れの下らぬ独り言です」


 そう言って、重そうに口を開いた。



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