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緊迫した夜の闇は、正直を言えばあまり好きではなかった。
氷のような冷たさと、沼のような恐ろしさを孕んだ闇の漆黒は、今でも忘れない――――彼の一番心痛む記憶を彷彿とさせる。
本陣からやや離れた森の中。適当な場所に腰を下ろし、恒浪牙は目を細めた。天を睨め上げて「くそったれが」と憎らしげに呟いた。
「何で俺が他人の色恋沙汰に手出ししなきゃならねぇのかね……」
今この状況では、そうしなければならないからに他ならぬ。
「こんな筈じゃあなかったってのに……」苛立ちも露わにがりがりと後頭部を掻く。
そも、自分が幽谷に関わることになったのは幽谷の母親として術をかけられ洗脳された女がきっかけだった。
だが犀煉に預けた後、そのまま永久に放置していれば良かった筈だ。そのまま赤の他人として傍観していれば――――。
……。
「……だが、私が介入しなければ今の状況が早まっていた……ああ、いや。今更そんなことを言っても無駄なことだ。今は、目の前のことを解決させなくては」
長々と嘆息すると、左手に気配を感じた。
視線だけをやって暫く待っていると、がさがさと茂みが揺れ、奥から青年が現れた。
ああ、確か趙雲という、公孫賛の部下だった男ではなかったか。
彼は恒浪牙に驚くと、すぐに拱手して歩み寄った。
「関羽の治療は、もう終えられたのだな。身体はもうよろしいのか」
「ええ。歩けない程ではありませんからね。関羽さんも、安静にしていればすぐに回復なさるでしょう」
そう言えば、彼は安堵した風情で微笑んだ。謝辞を述べ、また拱手する。
恒浪牙が地仙だからだろう、畏(かしこ)まった態度だ。
恒浪牙は苦笑を浮かべた。
「そんな、畏まらないで下さい。普通のそこら辺にいる薬売りとして接していただければ良い」
しかし、趙雲は首を横に振る。
「いや、地仙でおられるのならば、敬うのは当然かと」
「幽谷などは地仙だと言っても全く敬ってくれませんでしたよ。夏侯惇将軍も曹操殿も……こう見えて千年近く生きてはいるんですけどねぇ」
「千年も……それはまた、長生きですね」
千年。
常人にとっては途方も無い時間だ。
地仙になる前の自分も、まだそういったまともな感性だった。
狂ったのは……妻が天仙になって、心を失ってからだ。
彼は約八百年、彼女の《捨てたもの》を、ずっとずっと探し続けていた。
それらは幾千の小さな欠片。何処に落ちたのか、何に紛れたのか分からないもの。
宛も無く国から国へ渡り、それらを必死に集めてきた。
けれどもまだ、欠片は全てではない。
まだ見つからない。
大事な、大事な記憶がある。
彼女も自分も、大事に抱えておかなければならなかった大事な記憶。
それだけが、まだ見つからない。
「……人の身のまま死ねていたら、こんなに頭を痛ませずにすんだのかもしれませんね」
何の脈絡も無く独白する地仙に、趙雲は不思議そうに見下ろした。
ややあって、
「何故、幽谷を殺さなかったのか訊いてもよろしいだろうか」
「それは、再会してから、ということですか?」
「ああ」
あなたにかけられた呪いは、まだ消えていないのか?
――――否。
呪いなどとうの昔に己で解いた。
再会した時、恒浪牙の手で殺してしまえば、こうなることは避けられたのだ。
しかし……。
「……これは、先程関羽さんにも言ったことなのですけど」
自分は昔から、長い黒髪の女性には滅法弱い。
幽谷を生んだ母親も、それだった。
艶やかな髪は腰まであり、真っ青な瞳で、悲痛ながらもこちらを強く見据えて――――今でも恒浪牙を言葉のみで縛り付けてしまう。呪詛よりももっと質(たち)が悪かった。
それが、幽谷を自分の手で殺せなかった理由。
長い黒髪に真っ青の瞳……そっくりだった。
忘れ得ぬ大切な女性に、顔こそ違うものの所々が酷似していて、本物ではないものの本物に限り無く近くて。
殺せればこんなことにはならなかったのかもしれない。
……ただ、作り主が死ぬだけで。
「幽谷を殺せば、作り主の女仙も楽になれたことでしょうね。長年、四霊作りばかりで身体ももう長くはない」
目を細めてふっと嘲笑するように笑う。
趙雲はそんな彼の様子を見、また疑問を口にする。
「……四霊の作り主は、あなたとはどのような関係で?」
「え、そこまで訊いちゃうのですか。最近の若者はやけに突っ込みたがりますねぇ」
どっこいしょ、と立ち上がると、恒浪牙は趙雲に拱手して歩き出す。それが返答。朗らかに、問いへの答えを拒絶した。
「――――さて、犀煉の様子を見てきます。あの子も結構身体にガタがきていますから。それに、万が一目覚めていたら妙幻のもとへ行きかねない」
さすがにあの身体で向かわせたくないのでね。
趙雲も、非常事態に備えてゆっくり休んでおけと穏やかに言い聞かせ、恒浪牙はひらりと片手を振った。
彼は、追いかけてはこなかった。
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