「ああ、これは……なるほど。妙幻も幽谷の中にいる間に、随分と腹立つことするようになったんだなぁ」


 関羽の腕の傷を診た彼は舌打ちした後に一番深いものをそっと開いて関羽を呼んだ。
 診察の前に塗布(とふ)された即効性の麻酔のおかげで痛みは軽い。が、それも効き目は長くなく、彼はその前に手早く終わらせるつもりであった。

 けれども恒浪牙の顔を見るに時間がかかりそうで。


「あの……恒浪牙さん」

「薬の効果が切れるまでには終わりそうにないですね。と言っても量が少ないので、後々の為にも何度も塗布は出来ませんし……」

「わたし、我慢出来ますよ?」

「しかしながら、傷開かれて異物抜く様を長くは見たくないでしょう。何か気を紛らわすものがあれば良いんですが……」


 暫し考え込んだ恒浪牙はそこであっと声を漏らした。


「そうだ、私と碁でもしていましょうか」

「え? でも手当てが……」

「ええ、ですので、私の番ではあなたが、私の言う通りに碁石を置いて下さい」


 恒浪牙が手を動かすと、地面が仄かに光り出し格子状の図が浮かび上がった。碁盤だ。

 彼が幻覚だと言って、その碁盤の簡単な説明をしてくれた。
 起きたい場所を指で突けば碁石がそこに置かれるらしい。最初が黒、次が白と言うように、交互に。
 「天仙からは力の無駄遣いだと物凄く馬鹿にされますが、こうしたお茶目な地仙がいても良いですよね」なんて同意を求められたけれど、お茶目という点に賛同はとても出来なかった。お茶目と言うよりは――――掴みにくい人物である。


「では、あなたからどうぞ」

「え? 本当にするんですか?」

「碁の方に集中しておかないと、物凄く痛みますよ。だってこの私特製の小刀ですっと肉を裂いて、てらてらと煌めく桃色の中から――――」

「もう良いです! お願いします」

「はい。お任せ下さい」


 にこりと微笑まれてからかわれたのだと知った関羽は、がくりと肩を落とした。
 すると彼は関羽の頭をそっと撫でた。


「あまり、思い詰めない方が良い。でなくば、劉備殿を救うことは出来ません。この傷も、あなたの精神次第では治りませんよ」


 この異物には妙幻の呪いがかかっています。
 彼は一言謝って関羽の傷に小刀を突き立てた。抉るように動かされ、黒の石のような物が取り出される。まだ薬が効いているので痛みはさほど感じない。
 それは本当に小さな物だった。その辺に転がっている小石よりももっと小さい、その欠片とも呼べる程の大きさだ。
 これに、呪いがかかっていると恒浪牙は言った。とても厄介な呪いだと。

 これは幽谷の中にいた時に学んだ技術なのだろう。

 関羽の精神を犯し、崩壊を助長する。そして、妙幻の思うままに動く傀儡と成り果てるのだ。
 あの面倒臭いことを極端に嫌う妙幻が一瞬でそれだけの呪いをかけたとは今でも信じられないけれども、彼女の力を持ってかけられた呪いは、天仙よりも確実である。


「やっぱ幽谷の中で大人しくしている筈もなかったか……あのクソアマ」

「……ええと、」


 彼の口調が粗雑になるのはもう気にしないこととする。


「こんな小さな石の中に、そんな呪いがかかってるなんて……」

「これを一つずつ、確実に取り除きます。時間がかかりますし、痛いでしょうね。ですから、碁の方に集中なさって下さい。あまりに痛いようなら、仕方がありませんからまた薬を塗布します」


 関羽は首を横に振った。


「いいえ、薬は要りません。大丈夫です。それじゃあ、わたしが先攻で打ちますね」

「ええ。お願いします。なるべく、痛くしないようにはしますから」


 この手当てをする前に、関羽は恒浪牙に問いかけていた。
 仙術で治してしまえば早いのではないか、どうして使わないのかと。

 彼は、『私は、地仙になる前から医学を学んだ薬売りですから』と微笑みながら答えた。
 下薬も、滅多に使わない。関羽に与えた物が最後の一つだったという。
 仙術に頼るのは、目の前に医学の限界を見て本当に困窮した時。最後の手段だ。

 そんな彼は、どうして地仙になろうと思ったのか。
 それはまだ訊けていなかった。

 丁寧に、かつ迅速に手を動かす恒浪牙の顔を眺め、関羽は碁盤に視線を移した。
 最初の碁石を置かなければと、空いた手をそっと伸ばした。



‡‡‡




 痛みを覚えたのは、碁も白熱した頃。
 刺すような痛みと熱に、関羽は時折顔を歪めた。
 けれども、思ったよりも酷くはなかった。酷いのも一瞬一瞬で、それを越えればじりじりとした感触とささやかな痛みが続く。耐えられないような激痛が長続きするということは無かった。


「では、私は――――」


 恒浪牙の指示に従って幻影の碁石を置く。戦局は、関羽が圧倒的に不利だった。恒浪牙は非常に強い。恐らくは幽谷よりも、ずっと。
 それでいながら、傷が痛まないように丁寧に治療を進めていく地仙に、関羽は内心舌を巻いた。


「凄い……」

「え? 何がですか」

「もっと痛いのかと思ってました」

「ああ、それは良かった。嘗(かつ)て無い程に、神経使って慎重にやっていますから」

「碁をしながら、ですか?」

「ええ。一瞬意識を向ければ次の手は浮かびますから。伊達に千年近く生きてはいませんよ。色んな方々と打たせていただきましたから。そう簡単には、負けません」


 ふふふと悪戯っぽく笑う間にも手は迷い気無く動く。
 もう一度、関羽は凄いと呟いた。


「さて、もうすぐ終わりますよ。手当ても、碁も。碁は……そうですね、後三手程でしょうかね」

「え、嘘……!」


 慌てて碁盤を見下ろして頭を働かせた。まだ、まだ頑張れば勝てる筈……!

 眉根を寄せて碁盤を睨め下ろす関羽に恒浪牙が笑声を立てた。


「ほぅら、傷だけでなく私にも意識を向けるからそうなるのですよ。あなたのような方に興味を持っていただけるのは大変嬉しいことですがね。ああ、ちゃんと本心ですよ、これ」

「……うぅ……」

「右上は、わざと空かしているんですがねぇ……」


 ぽつり、と呟かれた言葉に視線をさまよわせた。
 そうして彼女もまた声を漏らした。

 確かに、そこだけやけに隙が大きい。ここからなら少しは巻き返せそうだ。
 だが――――それって恒浪牙の気遣いに甘えたことになるではないか。
 関羽は恨めしげに恒浪牙を睨んだ。


「これじゃ、完全にわたしの負けじゃない……」

「私はあなたの意識が怪我から逸れれば良いんですもの。ですが隅っこのことに見事に気付きませんでしたね」


 にっこりと笑われて、関羽は肩を落とした。
 悔しさが、胸を占める。そんな気遣いをされる時点で、自分は負けていた。
 ほんの少しだけ唇を尖らせると、恒浪牙が笑声を立てた。


「……怪我が治って、全てが終わったら改めて打ちましょう。ですから、機嫌を直して下さい。ほら、手当ても終わりましたよ。後は包帯を巻くだけです」

「え? ――――あ」


 本当だ。
 恒浪牙は小刀を置いて包帯を手にしている。
 もう、終わっていたのか……。
 血も綺麗に拭われていた。多少の痛みがあったから、まだ続いているとばかり思っていたが、拭いていただけだったのかもしれない。

 また手際良く包帯を巻いていく恒浪牙は、穏やかに告げる。


「あなたは、曹操殿について見落としがあるようだ。あなたが隅っこに気付けなかったことと同じです」


 曹操殿があなた自身に惹かれたのと、あなたの血について知ったのは、果たしてどちらが先だったのでしょうね。
 関羽は首を傾けた。


「どちらが、先……?」

「あなたは、知らないことの方が多い。曹操殿のしたことは男としても将としても屑――――ごほん。決して褒められたものではありませんが、それも成熟しきれない心故のこと。あなたは、それを分かっていながら分かっておられない。曹操殿は、単純に《分からない》だけです。誰かが教えてあげなくてはなりません。幽谷にあなたが人の心を教えたように、あなたなりに、彼へ教えて差し上げなさい。妙幻と対峙する前に、余計な憂いを残してはいけませんよ」


 包帯を巻き終えると、恒浪牙は徐(おもむろ)に立ち上がり、入り口の方へ視線を向けた。


「後は、お二人で解決なさって下さいね。あなた方の問題は非常に面倒なので、ここで片付けて下さい。夏侯惇将軍と違って、ちゃんと話をすれば解決出来るんですから」


 関羽がえっとなるのを一瞥し恒浪牙は碁盤の幻覚を消してそっと天幕を出た。

 ややあって、別の人物が天幕に入ってくる。
 その人物に、関羽は身体を強ばらせた。



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