思い出せない。
 名前も、夢の中で見たかんばせも。

 嗚呼、嗚呼。

 苛々する。




‡‡‡




 そこは、つい先刻まで緊張感溢れる陣屋だった。
 今は大小様々な砂の山が点々とあるだけで陣屋に残った《人間》は一人としていない。

 星河を引き連れた泉沈――――否、封蘭は隣を歩く女性を横目に見上げた。
 無表情な彼女はしかし、今非常に機嫌が悪い。封蘭すら声をかけることを躊躇う程に、痛々しい殺気を放出している。
 無理も無い。
 陣屋に入ってすぐ、彼女の嫌いな人間達が四凶だと騒いだのだ。

 自分達が消えていないのだから、劉備を巻き込んではいないだろう。
 だが、だとすれば彼は何処に行ってしまったのだろうか? 閑散とした場所には誰もいない。あのウザったいくらいに白い姿は見つからない。


「封蘭。あれは何処に」

「僕が知る訳ないでしょ。機嫌悪いからって僕に当たらないでよ」


 舌打ち。
 攻撃されるか――――そう思って身構えると、妙幻は大股に歩き出した。砂の山を風で払いつつ、周囲を見回す。

 封蘭もほっと吐息を漏らして彼女を追いかけた。


「おらぬな」

「みたいだね。考えられるとしたら、関羽のところに行ったのかもしれない。あいつ、気持ち悪いくらいに関羽に執着してたから――――」

「気持ち悪いなんて、酷いな」


 どくり。
 封蘭は足を止め、息を詰まらせた。
 直後、妙幻が封蘭の肩を掴んで引き寄せ片手を前に突き出した。

 封蘭に向けて投げられた何かが霧散する。

 妙幻は鬱陶しそうに眉宇を顰めて封蘭を突き放した。


「……なるほど。確かに金眼の力だな。本体には到底及ばぬが」


 何も無かった筈のその場所に、劉備は立っていた。
 全身を血に染めて。

 ……恐らくは、劉備の世話を担っていた兵士のものだろう。二人が来る前に殺したと見える。
 似合わぬ冷笑を幼いかんばせに浮かべる彼は、妙幻をじっと見据える。笑みが消えた。


「君は幽谷、ではないね。幽谷は何処だい?」


 返答によっては、こちらを殺すつもりなのだろう。
 封蘭は腰を沈めて精神を集中させた。

――――が。
 妙幻は彼の様子に何かを思いついたようだ。楽しそうな笑みを浮かべる。


「そうさな……妾の願いを聞き届ければ、汝れの願い、叶えてやらぬことも無い」

「妙幻?」


 何を言っているのだと視線で問うと、黙っていろと言わんばかりにぞんざいに片手を振られた。

 劉備は胡乱げに妙幻を睨んだ。


「つまりは、幽谷が戻ってくるの?」

「ああ。役目が終わればこの身体も不要だ。不愉快ではあるが、幽谷とやらにこの器譲ってやろうぞ。……それも、汝れの働き次第だがな」

「……何をすれば?」

「なに、簡単な話だ。世界の人間(ごみ)を全て掃除すれば良いだけのこと。破壊を求める汝れのその衝動を以て為せば容易かろうて」


 ……欺(あざむ)いて使うつもりなのか。
 妙幻の性格を考えるに、騙されたと知って激怒する劉備を見下しながら殺したいんだろう。本当に、これが四霊の応龍と言うのだから仙界は無茶苦茶だ。《泉沈》の方がずっとそれらしい。麒麟や、犀煉の四霊、そしてその片割れも感覚がずれているところがあるが、妙幻に比べればまだずっとましだ。

 目を細め、封蘭は劉備と妙幻を交互に見比べた。

 暫く沈黙していた劉備は目を伏せ、開く。


「分かった。どうせ人間は皆要らなかったんだ。それが先になっただけ。君は気に食わないけれど、その話には乗ってあげるよ」

「奇遇だな、妾も汝れのことはいけ好かぬわ」

「それなのに、僕に協力を仰ぐの?」

「汝れが妾に協力? 奇異なことを言う。妾が汝れを使っているのだ。勘違いするな。下らぬ願いで金眼の力に落ちた汝れも、十分下賤よ。人間と違い、利用する価値があるだけだ。決して自分の立場を間違えるでないぞ」


 威圧的な態度に劉備が顔を歪める。
 だが、彼女に従うだけで自分の目的を果たせるのと、幽谷を取り戻せると言うことから、拒絶はしなかった。神妙に、彼女の《命令》を甘んじた。

 劉備が一瞬封蘭を見やる。

 が、封蘭はこれを無視。急かすように妙幻をキツく呼んだ。


「分かっている。そう急かすな」

「ここに来るまでに君が言ったんじゃないか。《あの人》の身体が、もうだいぶ弱ってきてるって」

「あれのことは気にするな。まだ動けはする。」

「君の基準はおかしいんだって」


 ぽふ、と頭を撫でられ封蘭は不満そうに眉根を寄せる。
 妙幻は口端をつり上げた。


「ほんに、汝れは子供よのう」

「五月蠅い」

「……」


 劉備の視線がいっそう鋭くなる。これも、妙幻に対してだった。

 金眼の力が応龍の力を恐れているのか、高圧的な妙幻が単純に嫌いなのか。
 分からないが、妙幻はとかく機嫌が変わりやすい。下手に刺激して呆気ない展開にして欲しくはなかった。折角乗ったのに、実行する前に発案者に壊されるってつまらなさすぎる。

 封蘭は妙幻の手を退けて、星河を呼んだ。
 足にすり寄ってきた狼の頭を撫で、「さっさと掃除に取りかかろうよ」と大股に歩き出す。

 妙幻は無言で目を細め、彼女に従った。

 劉備は以前、憮然としていた。



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