5
思い出せない。
名前も、夢の中で見たかんばせも。
嗚呼、嗚呼。
苛々する。
‡‡‡
そこは、つい先刻まで緊張感溢れる陣屋だった。
今は大小様々な砂の山が点々とあるだけで陣屋に残った《人間》は一人としていない。
星河を引き連れた泉沈――――否、封蘭は隣を歩く女性を横目に見上げた。
無表情な彼女はしかし、今非常に機嫌が悪い。封蘭すら声をかけることを躊躇う程に、痛々しい殺気を放出している。
無理も無い。
陣屋に入ってすぐ、彼女の嫌いな人間達が四凶だと騒いだのだ。
自分達が消えていないのだから、劉備を巻き込んではいないだろう。
だが、だとすれば彼は何処に行ってしまったのだろうか? 閑散とした場所には誰もいない。あのウザったいくらいに白い姿は見つからない。
「封蘭。あれは何処に」
「僕が知る訳ないでしょ。機嫌悪いからって僕に当たらないでよ」
舌打ち。
攻撃されるか――――そう思って身構えると、妙幻は大股に歩き出した。砂の山を風で払いつつ、周囲を見回す。
封蘭もほっと吐息を漏らして彼女を追いかけた。
「おらぬな」
「みたいだね。考えられるとしたら、関羽のところに行ったのかもしれない。あいつ、気持ち悪いくらいに関羽に執着してたから――――」
「気持ち悪いなんて、酷いな」
どくり。
封蘭は足を止め、息を詰まらせた。
直後、妙幻が封蘭の肩を掴んで引き寄せ片手を前に突き出した。
封蘭に向けて投げられた何かが霧散する。
妙幻は鬱陶しそうに眉宇を顰めて封蘭を突き放した。
「……なるほど。確かに金眼の力だな。本体には到底及ばぬが」
何も無かった筈のその場所に、劉備は立っていた。
全身を血に染めて。
……恐らくは、劉備の世話を担っていた兵士のものだろう。二人が来る前に殺したと見える。
似合わぬ冷笑を幼いかんばせに浮かべる彼は、妙幻をじっと見据える。笑みが消えた。
「君は幽谷、ではないね。幽谷は何処だい?」
返答によっては、こちらを殺すつもりなのだろう。
封蘭は腰を沈めて精神を集中させた。
――――が。
妙幻は彼の様子に何かを思いついたようだ。楽しそうな笑みを浮かべる。
「そうさな……妾の願いを聞き届ければ、汝れの願い、叶えてやらぬことも無い」
「妙幻?」
何を言っているのだと視線で問うと、黙っていろと言わんばかりにぞんざいに片手を振られた。
劉備は胡乱げに妙幻を睨んだ。
「つまりは、幽谷が戻ってくるの?」
「ああ。役目が終わればこの身体も不要だ。不愉快ではあるが、幽谷とやらにこの器譲ってやろうぞ。……それも、汝れの働き次第だがな」
「……何をすれば?」
「なに、簡単な話だ。世界の人間(ごみ)を全て掃除すれば良いだけのこと。破壊を求める汝れのその衝動を以て為せば容易かろうて」
……欺(あざむ)いて使うつもりなのか。
妙幻の性格を考えるに、騙されたと知って激怒する劉備を見下しながら殺したいんだろう。本当に、これが四霊の応龍と言うのだから仙界は無茶苦茶だ。《泉沈》の方がずっとそれらしい。麒麟や、犀煉の四霊、そしてその片割れも感覚がずれているところがあるが、妙幻に比べればまだずっとましだ。
目を細め、封蘭は劉備と妙幻を交互に見比べた。
暫く沈黙していた劉備は目を伏せ、開く。
「分かった。どうせ人間は皆要らなかったんだ。それが先になっただけ。君は気に食わないけれど、その話には乗ってあげるよ」
「奇遇だな、妾も汝れのことはいけ好かぬわ」
「それなのに、僕に協力を仰ぐの?」
「汝れが妾に協力? 奇異なことを言う。妾が汝れを使っているのだ。勘違いするな。下らぬ願いで金眼の力に落ちた汝れも、十分下賤よ。人間と違い、利用する価値があるだけだ。決して自分の立場を間違えるでないぞ」
威圧的な態度に劉備が顔を歪める。
だが、彼女に従うだけで自分の目的を果たせるのと、幽谷を取り戻せると言うことから、拒絶はしなかった。神妙に、彼女の《命令》を甘んじた。
劉備が一瞬封蘭を見やる。
が、封蘭はこれを無視。急かすように妙幻をキツく呼んだ。
「分かっている。そう急かすな」
「ここに来るまでに君が言ったんじゃないか。《あの人》の身体が、もうだいぶ弱ってきてるって」
「あれのことは気にするな。まだ動けはする。」
「君の基準はおかしいんだって」
ぽふ、と頭を撫でられ封蘭は不満そうに眉根を寄せる。
妙幻は口端をつり上げた。
「ほんに、汝れは子供よのう」
「五月蠅い」
「……」
劉備の視線がいっそう鋭くなる。これも、妙幻に対してだった。
金眼の力が応龍の力を恐れているのか、高圧的な妙幻が単純に嫌いなのか。
分からないが、妙幻はとかく機嫌が変わりやすい。下手に刺激して呆気ない展開にして欲しくはなかった。折角乗ったのに、実行する前に発案者に壊されるってつまらなさすぎる。
封蘭は妙幻の手を退けて、星河を呼んだ。
足にすり寄ってきた狼の頭を撫で、「さっさと掃除に取りかかろうよ」と大股に歩き出す。
妙幻は無言で目を細め、彼女に従った。
劉備は以前、憮然としていた。
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