「まずは幽谷の身体――――妙幻の器についてお話しましょう」


 手を組み、恒浪牙は薄く目を開ける。


「彼女の器は、犀煉や泉沈、そして他の四霊達とは造りが全く違います。幽谷は犀煉の妹、犀華殿の遺体から作られました」


 犀華は、犀家に稀に生まれる不可思議な力を持つ娘であった。
 その為彼女の遺体が、新たな四霊の器の基礎にされたのだ。

 それまでの器は基本的に人の子種に精密に編み込まれた術をかけて、母親の胎内で形成された頃に四霊を宿らせるという手の掛かる製法だった。
 新たな器はある女の子宮に宿らせた。女に強く暗示をかけて、何が何でも――――己の命を犠牲にしてでも殺させないよう仕向けた上で、だ。
 加えて今まで成長し呂布に挑んで負けた、或いは挑む前に呂布との力量の差に自害した数多の四霊達の器に宿った記憶を刷り込み、生まれながら戦う術を持たせた。

 他の四霊と違いその器には、魂は無かった。自我の無いそれはただただ織り込まれた術に従って生命維持活動に専念し、十分に成長した頃妙幻が覚醒する――――それだけの存在であった。
 それ故に、《幽谷》は予期せぬ障害だった。

 恒浪牙は手を解くと重々しい溜息を漏らした。


「生まれる筈の無かった許されない自我、《幽谷》を生んだきっかけは犀煉でした。私が彼女を預けた時点で彼は、勿論基礎が犀華殿であることを知っていた。封蘭がそのことを教えましたから。ですから――――何度も殺そうとしました。私も彼がそうすることが分かっていたから、敢えて彼に委ねました」

「恒浪牙殿は、殺さなかったのか」

「器を生んだ女性に呪詛を、かけられましてね」


 恒浪牙に幽谷を託した彼女は、並の人間にしては非常に強い霊力を有していた。恒浪牙から見ても、女冠として修行すれば相当なものに成長しよう程の逸材であった。だからこそ、選ばれたのだ。
 彼女の発した言霊は地仙の恒浪牙をも縛り付けた。
 殺意を持つだけで酷い頭痛に襲われた。
 首に手を伸ばした時の、頭蓋をかち割られるような激痛は今でも忘れられませんと苦笑混じりに後頭部を撫でた。


「犀煉は、私の予想通りに彼女を殺そうとしました。けれど、想定外だったのは、思いの外彼の精神が脆かったということです。彼は何度も殺そうとしていましたが、犀華殿とよく似た器を殺すことが出来ませんでした。矛盾だらけの行動が、器に《疑問》を持たせてしまった」

「それから、幽谷が作り上げられた、と?」

「ええ」


 世平は渋面だった。
 自分達が普通に接してきた幽谷が間違いだと言われているのだ、不快に思って当然だ。
 関羽自身も、この話には胸が重くなる。幽谷が許されない自我だとか、そんな風に言って欲しくなかった。


「ですが、犀家にいた時点の自我は、妙幻ならば簡単に殺せます。それ程に脆い。《幽谷》が完全に確立されたのは関羽さん――――いいや、猫族の皆さんと出会ってからでしょう。加えて妙幻の特性も作用してしまった」

「特性?」

「妙幻は、応龍です。応龍は変幻を司る四霊――――その特性が、急速に器に望まぬ変化を起こしてしまいました。幽谷の中に、亡くなった犀華殿の人格が生まれたのもこの特性故です」


 曰く。
 関羽や趙雲達が見た犀華は、器に僅かに残った力の残滓(ざんし)が、記憶として生じたもの。人格と呼べる程はっきりとしていたのは特性が作用したからだ。
 妙幻はさぞ、苛立ったことだろう。
 関羽達に八つ当たりしなかったことは、奇跡に近い。


「……妙幻が目覚めた以上、幽谷の自我はもう戻ることはありません。彼女の器には、もう犀華殿の力も感じない。恐らくは、じきに妙幻は完全に覚醒する。……どのように器を壊すか、私達が考えるべきことはそれでしょう。幽谷も犀華殿も、完全に死んだものと諦めて下さい。妙幻は、雑念を持って相手出来る存在ではない。おまけに、そこには封蘭も、金眼の力に呑まれた劉備殿もおられるのですから」

「……」


 関羽は視線を落とした。
 絶望的な事実に、その場に重い沈黙が横たわった。
 誰もが口を閉ざして恒浪牙を、或いは関羽を見つめる。

 けれども暫くすると、唐突に関定が恒浪牙を呼んだ。


「ええと、恒浪牙さん? 何で幽谷はその妙幻って奴に身体乗っ取られたんだ? 関羽の所為だって封蘭の奴は言ってたけど……あ、あと曹操も。毒を仕込んでたーとか何とか。あれって全部マジな訳?」


 息を呑む。
 そう。自分の所為だ。
 自分が、幽谷を――――殺した。
 青ざめる関羽を見やり、曹操は数度瞬きし、関定を見据えた。


「主に、私の所為だろうな。あれの食事に、あらゆる毒を仕込んでいた」

「結果的に言えばどっちもどっちですね。曹操殿は肉体面、関羽さんは精神面で彼女を追い詰めてしまった。ああ、あと精神面においては夏侯惇将軍も少々。まあ、幽谷自身関羽さんに傾倒し過ぎたことが一番の原因でしょうが。《幽谷》という自我にとって、関羽さんは絶対的な支柱でした。依存しなければ、もっと別な結果になっていたかもしれません」


 そこで一旦関羽の様子を窺い、困ったように目尻を下げた。肩をすくめて、苦笑めいた微笑を浮かべてみせる。


「……ま、もう過ぎたことです。今更どうにもならないことをあれこれ責めるのは止めましょう。面倒ですし、関羽さんの治療をちゃんとしなければなりませんし、犀煉のことは見張っておかなければなりませんし、妙幻達とどう戦うか考えないといけませんし――――私は体力が無いのでだらだらとやってしまうのですよ。ですから時間はたっぷりと持っておきたい。ここまでで、何か質問はありますか?」

「おい、十三支と金眼のことを、まだ聞いてねえぞ」


 袁術が初めて口を挟み、恒浪牙は思い出したように声を漏らした。


「ああ、すみません。そうでしたね、話すつもりは全くありませんでしたが、ついでですから話しましょう」


 ですが、皆さんの価値観を大きく変えてしまいますから、それなりに覚悟をしておいて下さいね。
 恒浪牙はゆったりと、柔和な微笑みを湛えて言い放った。



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