幽谷は目下、木の上に立っている。
 その遙か下には、黄色い頭巾がいくつかあって、彷徨いている。
 林で襲いかかった黄巾賊達だった。数が増えているのを見ると、途中で合流したのだろう。

 桑木村も見える場所であるから、略奪を行いに向かうは必定である。幽谷は彼らの動向を、殺す機を窺いながら見張っていた。


「おーいってー……あの十三支め、よくもやりやがったな……」

「一人、いつの間にかやられてたしよ。まったく、忌々しいったらねぇ!」


 各々が憎悪剥き出しに関羽達の悪口を垂れる。
 関羽達の力量も分からなかった彼らの自業自得だと言うに――――思わず舌を打った。幸い、黄巾賊には聞こえなかったけれど。

 幽谷はそっと匕首を手に取った。


「しゃーねぇ。今はあの村からふんだくって、それで済ませようぜ。十三支から盗らずとも、あっちの方が大量に奪えそうだ」

「……そうだな」


 話が決まった。
 彼らが動き出して根本から離れていく――――今。

 幽谷は跳躍した。彼らの背後に着地して最後尾の男の首を斬る。血が噴き出すのを避けて残る黄巾賊も神速で間を走り抜けながら確実に致命傷を負わせた。

 我が身に血が付かぬよう、その場から数歩離れる。

 黄巾賊は呻きながらも自身に起こったことが理解できない様子だった。急激に生気を失っていくいくつもの双眸が、問うように幽谷を捉えている。
 幽谷は涼しい顔をして、彼らが倒れ絶命する様を眺めた。

――――久方振りの、光景だった。
 昔は常時見ていた死体。それは標的だったり、仕置きで殺された同僚だったり、拷問で気が触れた者だったりしたが、どれも死んでしまえばただの冷たい肉の塊だった。

 懐旧の念こそ浮かばなかったが、未だに見慣れている自分に辟易(へきえき)した。
 やはり、私はまだ暗殺者なんだわ。
 それを突きつけられたような気がする。
 幽谷は細く吐息を漏らした。匕首を戻し、黄巾賊の死体に背を向けて猫族の元に戻ろうと歩き出す。偵察はもう終わっているし、この辺りの地形も、もう頭に入っていた。



 颯爽と歩き去っていく幽谷。
 しかし彼女は、一つだけ見落としていた。

 彼女の背を見つめる、黄巾賊の姿があったのだ!
 彼らは幽谷が桑木村の方へと向かうのをしっかりと見ていた。



 幽谷は己の気付かぬ内に、昔の感覚を失っていたのだった。



‡‡‡




 猫族は、村から少しばかり離れた平原に野営していた。
 話を聞けば、やはり猫族と言うだけで村人から厭悪され、村に入ることは許されなかったのだという。
 守ってやるというのに、猫族には守られたくないとは、随分と贅沢な話だ。
 この人界では詮無いことであれども、猫族の性格を知る幽谷にはとても許せるものではなかった。

 それなのに、何故か劉備の機嫌はやたらと良かった。関羽曰く、追い出されてからすぐ後に村の子供と仲良くなったそうだ。明日も遊ぶ約束をしたそうで、幽谷も誘われた。断ることが出来なかったので、明日は目隠しをしなければならない。
 だが今宵までは、目隠しせず、ずっと村を見張っていようと思う。

 怪しい動きがあったならば、殺しに行くまで。
 正直警備にやってきた猫族を拒絶した桑木村の人間を守る意味をあまり感じないが、それでも猫族の役割が変わった訳ではない。
 関羽達が手を汚さぬように、自分が片付ける。
 幽谷はそう意気込んだ。

 桑木村を眺める中、ふと幽谷は振り返る。
 火を囲い輪を作って談笑する猫族達の方から、二人の少年がこちらに歩いてきてるのが見えた。


「幽谷、こんなところで何してんだよ?」

「関定様、蘇双様。村の様子を見ておりました」


 拱手しながら関定に答えると、蘇双がすっと眉を顰めた。


「……いい加減休んだら? 幽谷、寝てないだろ」

「いえ、私ならば大丈夫です。どうかお気になさらず、お二人はお休み下さい」


 蘇双が溜息をつく。

 その隣で、関定が肩をすくめた。


「あれま本当、幽谷ってばおかしくなってら」

「……はい?」

「ちょい気張り過ぎだって。お前だけが頑張らなくて良いんだからさ」


 肩を叩かれて幽谷は頭を下げる。


「お気遣い、傷み入ります。ですが私は、本当に大丈夫ですので、どうかお二人はお休み下さい。私が偵察したとは言え、いつ黄巾賊が現れるか、分かりませぬ故」

「だったら、幽谷こそ休むべきだ。男揃って不甲斐ないけど、猫族の中でも一番強い関羽と張るんだから。いつでも全力で戦えるようにしておきなって」

「……ありがとうございます。では、お言葉に従い、少々仮眠を取ります」


 これ以上大丈夫を繰り返したら無理矢理にでも連れて行かれそうな気がした。蘇双の顔が、少し怖かった。
 幽谷は二人に見張りを頼もうとして、不意に村の隅で炎が動くのを見た。


「幽谷?」

「お静かに」


 暗闇の中、それは非常に目立った。
 今まで人っ子一人家から出ていなかった桑木村。
 その中に一人だけ、炎を持った男がいるのだ。

――――いや、違う。
 外だ。外にも何人かいるではないか。
 明らかに怪しい人影に、炎に照らされたその姿に幽谷は弾かれたように走り出した。


「あっ、幽谷!?」

「皆様に敵襲だとお報せ下さい!! 黄巾賊が現れました!!」

「ええ!? マジで!?」

「私は掃討して参ります!」


 匕首を手に彼女は一気に緩やかな坂を駆け下りた。
 彼女の姿はすぐに濃紺の闇に紛れて、見えなくなってしまう。


「ちょっ、ちょっと幽谷ー!!」

「関定、世平叔父達に急いで報せて! ボクが幽谷を追いかけるから!」

「わ、分かった!! 蘇双、無茶はするなよ!」


 蘇双と関定はほぼ同時に、真反対の方向へ駆け出した。
 俊足の関定ならば、すぐに世平達を連れてきてくれるだろう。

 ならば自分は、一刻も早く幽谷と合流しよう。
 意外と頑固な彼女は猫族の者が人を殺さないようにと、今でも思っている筈だから。
 彼女ばかりが背負う必要など、何処にも無いのに――――。

 蘇双は、一心に幽谷の背を追った。

 が、すぐに見失ってしまうのだ。
 彼女の足は普段鍛錬に見るそれよりも、ずっと早いように思えた。



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