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 追いかけようとした身体はしかし、何かに縫いつけられたかのように動かなかった。
 あの妙幻と言う女がそのようにしたのだろうか。それとも、泉沈が?
 ゆっくりと、確実に遠退いていく二人に、関羽は絶望した。

 幽谷が死んだのは自分の所為だと泉沈は言った。
 曹操が嫉妬で幽谷に毒を仕込んでいたと妙幻は言った。

 全て、わたしの所為……?
 がらがらと自分の中が崩れていく。涙すらも出なかった。

 あの後ろ姿は幽谷だ。
 でも、もう幽谷ではなくて。
 妙幻という意識で――――。


『あなたの所為では、決してないから』


 犀華が残した言葉はこのことを指していたのだろう。
 あの時点で、すでに死にかけていたんだ。

 手遅れじゃないか。

 頭を抱えたい。
 けれども動かぬ身体は許してはくれない。
 動きたいのに、動けない。まるで見えない鎖に全身を拘束されているかのような心地だ。
 何をすれば良いのか分からなかった。

――――されども。


「……関羽さん」


 掠れた声が聞こえた瞬間、拘束が解けた。
 突如自由になった身体はその場に崩れ落ちる。曹操が支えてくれなければ倒れていた。

 曹操に寄りかかりつつ背後を振り返れば、そこには恒浪牙が立っていた。
 酷い有様だ。ゆったりとした衣服は所々が裂けている。泥だらけで血が染み見るも痛々しい様だった。
 肩に担いでいるのは犀煉だろう。彼も恒浪牙以上にボロボロで、意識も無い。

 夏侯惇が駆け寄ると、彼に犀煉を託して地面に座り込んだ。耐えかねたように激しく咳込んで吐血する。


「恒浪牙さん、その身体は……!?」

「すみません。ヘマをしてしまいまして。いや、妙幻の八つ当たりって本っっ当に容赦が無いので……傷つかない筈なんですがこんな有様で。すみません。もう彼女に対抗出来る気がしなかったので、余計なことをしないように皆さんに術をかけさせていただきました。今はもう動けますよ」

「犀煉は?」

「犀煉は、暫く気を失っているでしょう。だいぶ内臓を損傷しましたから。それに、命も随分と削っています」


 両手を後ろについて大きく深呼吸する彼は、悲しげに関羽を見やり、猫族を見渡した。懐かしそうに眼を細める。


「泉沈もだいぶ滅茶苦茶な精神になってきていますね。自分でも、自分の行動が良く分かっていないでしょう。やはり、猫族に接触させた影響か……劉備さんのことは、もう遅い。取り敢えず今は、この場を離れて皆さんの治療を致しましょう」

「ちょっと何言ってるのさ、勝手に――――」

「お、おい関羽、そいつ誰?」


 蘇双が噛みついたのを遮って、関定がよろめきながら立ち上がった。彼らの意思を無視して仕切ろうとする恒浪牙を怪訝そうに見る。

 恒浪牙を関定を探るように見つめて唐突に掌に拳を落とした。何かを思い出したようだ。


「あー、君。あの子の子孫ですねぇ。髪の色も、顔の形もあの子そっくりだ。いやあ、あの子から何代目なんだろうか……実に懐かしい」

「は? ……え、え?」


 どういうことかと関定が視線で関羽に助けを求める。
 関羽は恒浪牙を一瞥し、袁紹を見やった。未だ屈辱に動かない彼や袁術達にも、恒浪牙の正体を話しても良いのだろうか……。
 言い澱んでいると、恒浪牙がゆっくりと立ち上がった。覚束ない足取りで猫族の前まで歩いていって、拱手する。その直後に倒れそうになったのを趙雲が支えた。


「ああ、すみません。私も、犀煉以上に身体を壊されてしまったので。腰骨も幾分か再生しているのですが、未だ骨にヒビが入っておりまして」

「立っているのがキツいのなら、座っては如何か」

「おやおや、このような老いぼれにお気遣いありがとうございます。ではお言葉に甘えて、失礼致しますね」


 趙雲の手を借りながら再び腰を下ろした恒浪牙は、「私、地仙なんですよ」とあっさりと暴露した。
 一瞬、誰もが惚けた。無理もない。


「……ち、せん? おっちゃん、ちせんって何? 何かの職業?」


 張飛が世平に問いかけた。

 が、世平は地仙が何なのか分かっているようで、目を向いて恒浪牙を凝視している。


「おや……地仙じゃ通じませんでしたか。仙人です、私」

「……関羽」

「世平おじさん。この人の言っていることは本当よ。生まれたばかりの幽谷を犀煉に預けた人でもあるの」


 世平は渋面を作って、胡乱げに恒浪牙を見下ろした。口で言っても、やはり簡単に信じてはくれなさそうだ。

 しかし本当のことだと関羽が繰り返し言えば、趙雲などは信じてくれた。
 それから彼につられるように、世平や張飛も、信じはしないものの、恒浪牙を敵ではないと判断してくれたようだ。


「……じゃあ、仮に地仙なら関羽の毒を治せない?」

「ええ、治せますよ。私の下薬なら」


 蘇双の疑念の篭もった問いに気分を害した様子も無く彼は頷いた。懐を探り、趙雲に何かを持たせると関羽を指差し何事か言った。
 趙雲は了承して関羽へ駆け寄ってくる。曹操を一瞬だけ睨んだのは見間違いではないだろう。

 趙雲に渡されたのは真っ黒な丸薬だ。見るからに苦そうだ。
 それを即座に口に含んで飲み込んだ。凄絶な苦みに顔が歪んだ。良薬は口に苦しと言うが、これは少々キツかった。


「あの、恒浪牙さん、ありがとうございます」

「いえいえ。本業は薬売りなのでお気になさらず」


 暢気な口調だが、彼の顔色は非常に悪い。彼の態度に反感を覚える者もいるだろうが、関羽からすれば地仙の彼まで暗い顔をしていないことは僅かな救いだった。そういった、彼の気遣いなのだろう。

 恒浪牙は後頭部を掻いて、袁紹軍の本陣のある方へと視線をやった。目を細め、思案する。


「劉備さんのことも含め、これからのことを話しましょう。曹操殿、それで良いですね。袁術殿も。本陣に戻れば確実に死にますよ。死にたいのであれば止めはしませんが、人としては死ねないと思います」


 どちらにしろ、劉備殿は手遅れだったのですしね。
 そう漏らした地仙に、猫族の皆が不快そうに顔を歪めた。


「こ、恒浪牙さん、劉備が手遅れだったって?」

「呂布が死んだ時点で、彼の中の金眼の力は彼の意識を犯していたのです。今更劉備さんを守ったとて彼の凶悪な衝動は止められない。猫族は――――いや、劉軍の人間達の為に背負った業は、あまりにも強大過ぎた」


 穏やかな声音に、一抹の悲しみを感じた。
 彼の口振りでは昔、猫族と交流があったようだ。
 彼は一体何を知っているのだろうか……いや、何を知らないのだろうか。

 関羽が見つめる中、恒浪牙は趙雲に支えられて再び立ち上がると、にこりと笑った。


「さあ、ここを離れましょう。あの子が記憶を取り戻してしまった以上、泉沈についても、猫族には話しておかねばならないでしょうから」



―第九章・了―




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 第九章は短めです。
 次が最終章、ですね。

 ……長くなるんだろうなぁ。



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