12
幽谷の姿をしたその女は、関羽を軽蔑しきった冷たい目で睨んだ。
関羽は目を剥いて女を凝視した。
彼女の表情が、おかしくてたまらない。
こうなるきっかけを作ったのは関羽自身だというのに。
《幽谷》を殺したのは関羽自身だというのに!
泉沈は笑声を漏らさずにはいられなかった。
そんな泉沈の胸座を掴むのは、張飛。先程から泉沈に対して激怒していた彼は、幽谷が別人であることに今度こそ我慢がならなくなったらしい。
泉沈はそれでも笑声を止めなかった。だって、本当におかしいのだ。
「おい! 幽谷はどうしちまったんだよ!? 笑ってねぇで説明しろ!!」
「説明したところで理解出来る頭持ってんの? 君」
「んだと!?」
「放せよ屑」
刹那、張飛の足下が穿(うが)たれた。
見えない波動にごっそりと抉られた地面に張飛は慌てて泉沈を突き飛ばす。
乱れた衣服を正した彼は、「まあ、理解出来る頭の奴は何人かいるか」と世平や趙雲に目を向けた。
「言っておくけど、幽谷をこういう風にしたのは関羽であって、僕を責めるのはお門違いってものだよ」
「わ、たしが……?」
「そうそう。僕はほんの一滴の、致死量にも足らない程度の毒を垂らしただけだもの。関羽が幽谷を突き放そうがどうしようが、僕の知ったことじゃない。けど、一応ありがとうと言っておくよ。おかげで邪魔な《幽谷》の意識が消えたんだ。ようやっと、彼女は覚醒出来た」
「ね、妙幻(みょうげん)」無邪気な笑顔を向けられた女は、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「……そうさな。下賤二人が妾の覚醒に一役買ったというのは、気に食わぬが」
「あれ、曹操もなんだ」
「ああ。下らぬ嫉妬で妾に毒を仕込んでおったぞ。未だ、少々の自由が利かぬ」
「あー……それもあったのか。でも、良いこと尽くしだったじゃん。それもすぐに回復するだろうし」
女――――妙幻は面倒そうに溜息を漏らした。
つい、と周囲を見渡し、泉沈に視線を戻す。
「して、金眼は何処におる。あれを殺さねばならぬのであろ」
「劉備なら袁紹軍の本陣にいると思うけど。案内しようか?」
「待て!」
鋭く制止したのは趙雲。すでに大剣を構えている彼は、注意深く二人を見比べている。
だが、闘志をまるで感じない。警戒はするが、二人を害するつもりは無いらしい。……甘い。甘すぎる。
「劉備殿をどうするつもりだ」
妙幻は趙雲を見もしないで視線を僅かに上げて、顎を撫でる。
ふっと、紅唇が三日月に歪んだ。
「そうさな……金眼を完全に呼び覚まし、人間を滅させようか。暇潰しと、芥の掃除を兼ねて。その後に殺す」
「何だと!?」
「さぞ面白かろうな。かつて金眼を討ち世界を救済した男の子孫が、人間を全て滅ぼす――――なんとも滑稽ではないか」
嘲るように言い放った彼女の言葉に、周囲がどよめいた。
「金眼を討った男の子孫……?」
「どういうことだ? 十三支は金眼の末裔ではないのか?」
本当に、愚か。
泉沈は袁紹に歩み寄り、にっこりと笑った。
それは玉響(たまゆら)――――彼は袁紹の頭を掴んで思い切り地面へと顔面を叩きつけた。
「がは……っ」
「それはてめぇらが勝手に作った話だよバーカ」
漢帝国が己の威信を保つ為に作り上げた真っ赤な嘘。
本当の英雄は猫族の始祖。
それを知らず、金眼の子孫であると信じ込み、排除してきた人間達。
確かに劉備の手で人間(ごみ)を殲滅させるなんて、痛快かも知れない。
その話に乗ろう――――そう決めて袁紹の身体を仰向けに転がした。
鼻血や泥にまみれたかんばせを見下ろし、一言。
「きったねー面(つら)」
悪口を垂れた。
悔しげに歪められた袁紹の顔と言ったらない。こればかりはさして面白くもなかった。ただ汚いだけ。
「迎えに行く? 金眼」
「そうさな。ここへは汝れを捜しに来ただけだ。下賤の中にいつまでもいるつもりなはい。封蘭、案内(あない)せよ」
「だからその名前で呼ぶなっつの」
妙幻は鼻で笑って歩き出した。
が、当然猫族がその前に立ち塞がる。
その先頭には世平と趙雲がいた。
それぞれの得物を構えて、二人を睥睨する。
妙幻は立ち止まった。腕組みし、右足に重心を寄せる。
「何だ。汝れらのことなら、英雄の子孫であることを讃え、生かしておくつもりだが?」
「お前がもう幽谷でないことは分かった。なら、俺達は劉備様をお守りする」
……腹が立つ。
泉沈にはその仲間意識が薄っぺらく感じる。
仲間が大事? 仲間だから守る?
じゃあ、どうして自分は――――。
拳を握り締めた泉沈は、姿を変えようとして、妙幻に手で制された。
「安い仲間意識よな。嘗(かつ)て、たった一人の同胞を排他しておきながら。見るも不快だ」
泉沈の肩を撫でた彼女は指を鳴らした。
すると一陣の突風が吹き荒んだ。その勢い凄まじく、猫族の身体を浮かせて左右へ飛ばしてしまう。
道が開いたところで、妙幻は再び歩き出した。
「封蘭。行くぞ」
「! わ、分かってるよ……!」
泉沈は小走りに妙幻を追いかけた。
誰も、彼らを追おうとする者はいなかった。
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