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 夏侯惇は走った。

 曹操(しゅくん)を放って何をしているのだと叱咤する声が、脳裏に反響する。

 が、それよりも彼女の存在を確かめなければならなかった。
 それがひいては曹操の為になる――――そう、自身に言い訳する。

 断崖に立ってこちらを見下ろしていた女は幽谷だ。間違い無い。

 昨夜死んだと曹操に聞かされていた筈の、幽谷。
 それが、あの断崖にしっかりと立っていたのだ!

 彼女の主人が曹操に無理矢理連れて行かれている様も良く見えていだろうに、彼女は全く動かなかった。傍観を決め込んでいた。
 まさか、己を捨てた主を見限ったのか?
 それとも――――。


『……私は、元々生まれることの無かった意識なのだそうです。ですから、泉沈のようにはなりはしないでしょう』

『つまり、お前の言う潜在意識が表に出てしまえば、お前は消えるということか?』

『そうなります』



「……っまさか、」


 潜在意識、が――――。
 夏侯惇は舌を打った。
 確かめなければならない。

 彼女が彼女でなくなってしまったのか。
 《幽谷》が消失したのか。
 曹操様ならば大丈夫だ。あの方のお側には夏侯淵がいる。

 今はとにかく、《幽谷》の無事を確認しなければ……!

 夏侯惇は走る。
 目の前に巨大な岩を登って越えようと速度を弛めた。

 ――――されども。


「!?」


 右手の岩影から何かが躍り出たのだ。
 夏侯惇に覆い被さるように襲いかかったそれを避けきれず、一緒に地面に転がる。

 鼻を突いたのは焦げた臭いだ。

 地面に倒れた衝撃で呼吸が止まるも、夏侯惇はその正体を確かめる。


「! お前は……!」

「……っ、あ、っああ、夏侯惇将軍でしたか」


 恒浪牙。
 関羽が逃げてより行方の知れなかった地仙が、満身創痍の体で弱々しく笑っていた。



‡‡‡




「貴様! 今まで何処に――――」

「今はそれどころではありません」


 鋭く遮った恒浪牙は後ろを振り返り、片手を前に差し出した。

 刹那。
 彼の手の先に何かがぶつかり、半瞬、円形の光彩が現れた。


「なっ」

「ひとまずここから逃げましょう。このままでは一緒に風化します」

「風化だと?」


 恒浪牙は夏侯惇の上から退くと、顎をしゃくって前方を示した。

 状態を起こして胡乱な眼差しを向けた夏侯惇は、思わず目を瞠った。

 予想外の事態が起こっている。
 目の前には、恒浪牙が現れた岩よりも一回り大きい岩があった筈だ。自分はそれを上って向こう側に行こうとしていた。


 それが、無い?


――――いや、形を失っただけだ。
 それを構成していた物は下にある。
 砂塵となって、山となっているのだった。

 このままでは風化する……。

 恒浪牙の言葉の意味を知った途端、全身から血の気が引いた。
 まともな死に方ではない。

 素早く立ち上がれば、笑声が聞こえた。
 鈴を転がすようなそれは妙齢の女のものだ。

 夏侯惇はそれに聞き覚えがあった。
 彼だけではなく、恒浪牙も。
 恒浪牙を見やれば彼は苦々しい顔をして、先程自分が指差した方向を睨みつけていた。

 再び、見る。


「……っ」


 時が止まったのかと、そんな錯覚に襲われた。

 そこに立っていた女は嗤(わら)っていた。
 ……赤と青の双眸を愉しげに歪ませて。


「幽谷……」


 夏侯惇が茫然と呼ぶと、女は笑みを消す。不快そうに顔を歪めた。
 恒浪牙がキツく夏侯惇を呼んでくるが構わずに一歩前に出た。


「幽谷! お前は曹操様に殺されたのではなかったのか!?」

「……」


 幽谷は何も発しない。ただただ苛立たしげな視線を夏侯惇に向けるのみ。


「夏侯惇将軍!!」

「!?」


 恒浪牙が肩を掴んで夏侯惇を後ろへと引いた直後に地面から鋭利な刃が飛び出した。鉄ではない。土だ。恒浪牙が身体を引いてくれなければ、土の刃が、夏侯惇の顔を骨ごと割っていた。
 無機質なそれに明確な殺意を感じ、悪寒がした。

 まさか、本当に――――。


「潜在意識が目覚めたと言うのか……?」

「今はその話をしている余裕はありません! 私が時を稼ぎますから、あなたは早くこの場を離れなさい。そしてすぐに戦を止めてこの土地を離れるように進言するのです」


 でなくば、全滅せしめられる。
 緊迫した堅い声音の彼は、濃い焦燥を表情に浮かべている。初めて見る余裕の無い顔だ。

 彼のかんばせに異常事態を感じ取った。
 ちらりと幽谷を見やり、悔しげに歯軋りすると、彼はきびすを返して駆け出した。


「稼げる時間は長くありません! 何としてでも、その場から双方を退却させるのです!!」


 恒浪牙の怒声が、背中を容赦なく殴りつける――――。


『……私は、元々生まれることの無かった意識なのだそうです』


 嗚呼、彼女はもう死んでしまったのか。

 その事実が何とも重い。
 全ての音が、感覚が、曖昧になってしまう。

 だが、逃げる夏侯惇を嘲る女の哄笑だけは、いやにはっきりと聞こえるのだ。



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