恒浪牙は走る。
 ゆったりとした重ね着した衣服や、片手に持った狼牙棒の重さなどものともせず、その足は狼よりも速かった。

 彼の前には赤い髪をした男が走っている。揺れるその髪は、燃え盛る炎のようにも思えた。

 額から流れ落ちる汗を拭いながら、恒浪牙は彼を追いかけた。
 《彼》の足は、速度が格段に上がっていた。自分でも、徐々に距離を離されているのだ。
 彼の覚醒は特殊だ。それ故に力を振るう都度――――いや、その姿を維持しているだけでも命をごっそりと削っていく。
 激情のままに覚醒した彼がそんなことに気を向ける筈もない。
 きっと命を捨て去ってでも、今度こそ殺そうとするに違い無かった。

 目覚めた彼の憤りは推し量れない。
 それは《創り主》に対してだろうし、《自分》に対してもだろう。

 ある意味では、彼が今の状況を生みだしたのかもしれない。
 彼が情に流されなければ、微かに残った愛情を消されていれば――――。


「――――って、馬鹿か俺は……!」


 今はそんなことはどうでも良いではないか。
 今はともかく、彼を抑えて、幽谷を捜さなければならない。
 もし、もし犀華の力が残っていればまだ幽谷の自我を復活させることが出来るかもしれないのだ。
 その上で、彼女を殺せば或いは最悪の状況を免(まぬが)れる。


『どうか、この子を……私の、赤ちゃんを、助けて……!!』


 こんな時に!!
 脳裏に反響した声を即座に振り払う。今はもう、そんなことに構ってはいられないのだ。
 恒浪牙は舌打ちして、男を呼んだ。


「犀煉! 落ち着きなさい!! あなたが意識を乱せばあなたの器は壊れてしまう!」


 彼――――犀煉は言葉を返さない。
 犀煉は激情に呑まれ忘れてしまっている。

 覚醒をした姿で幽谷のもとへ行けば、共鳴効果で覚醒を促進してしまう。

 犀煉が覚醒しかけた時、側に覚醒時の泉沈がいた。それはこの共鳴効果を狙ってのことだった。
 今回もそうするかは分からない。いや、する可能性は低いだろう。
 覚醒した姿の《あれ》に近付けば、苛立ちをぶつけられるに決まっている。それを警戒して、側に寄らずに安全な場所へ隠した後に離れることも十分考えられた。

 覚醒していない姿であれば、《あれ》は攻撃して来ないとは思うけれども……それも苛立ちの程による。

 せめて、せめて彼を人間の姿に戻しておかなければ!
 恒浪牙は再び声を張り上げた。

 よしや応えが返らずとも、何度も何度も声を張り上げた。



‡‡‡




 彼女は一人、断崖の上に佇んでいた。
 遙か遠くの荒野に、激しい交戦を繰り広げる二つの軍。
 それを見下す彼女は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「いつの世も、人は汚らしいものよな。芥(ごみ)が徒(いたずら)に生臭い芥を増やしておる」


 遠い昔、この人間達を救おうとした男は彼女の知人に助力を乞うた。
 その愚かしい程に真っ直ぐで純粋な瞳は、人間の中では珍しかった為、今でも彼女の記憶にはっきりと残っている。ただ、名前は忘れた。……いや、そもそも聞いた覚えも無かった。


「嘗(かつ)て救世してみせた人の子よ、これが汝れの守った人々の果てだ」


 こうも醜く、汚れた芥と成り下がった。
 汝れの一族も今では芥に芥と罵られておる。
 酷薄な笑みを浮かべ、彼女は両手を広げた。


「果たして、救う価値はあったか? 下賤な人に、生きる価値はあるのか?」


 消してしまった方が良いのではなかったか?
 なあ、守った者達に裏切られ、僻地に追いやられた人の子達よ。


「妾は言うた。人間はかくも愚かしく汚らわしい。金眼を生み出したのも、もとはこの芥だと。だが汝れは、それでも人を愛しているから守りたいと言うた。その言葉、今この世を見ても言えるのか? 滑稽だな、人の子よ。結局は、汝れのしたことは無駄だったのだ。哀れや、哀れ。一軍諸共誰にも称えられず、業を被りて言われ無き咎(とが)を背負うた。それでも愛し続けた人が、妾の眼には何とも煩わしいぞ」


 汝れの眼にはどうだ。
 この醜い様は未だ愛おしいと映るのか?
 だとすれば、汝れはただの妄信者だ。
 遠い昔に死んだ人の子に、彼女は話しかけ続ける。

 高らかな演説のようにも思える語りは、彼女が満足するまで続いた。


 最後には哄笑だ。
 小馬鹿にしきった鈴の笑声が、空気を震わせる。


 そんな彼女の背後に、何者かが立つ。何も言わずにただ佇むだけ。


「ほ、ほ……汝れもこれで解放されような」


 その人物を振り返り、彼女は婉然とした微笑を浮かべた。



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