劉備は至福の時を噛み締める。
 ようやっと帰ってきた関羽。
 幽谷がいないのは至極残念なことではあるが、彼女もすぐに合流する。だって幽谷は関羽や猫族のことを何よりも大切にしてくれているのだから。自分の処刑のことを知ったなら関羽と同じように自分のもとに来てくれる筈だ。

 自身をぎゅっと抱き締める関羽の体温に目を伏せじっとしていると、関羽が弱り切った声を出した。


「聞いたわよ、劉備が捕まって処刑されちゃうって嘘だったのね。わたし本当に驚いたんだから!」


 劉備は甘えるように関羽の胸にすり寄った。


「ん……嘘ついてごめんね…。でもぼく会いたかったの。嘘つきになっても……」

「劉備……」

「もう、やだよ。どっかいっちゃ」


 もう何処にも行かないでと嘆願すると、関羽が泣きそうに顔を歪めて謝罪してきた。また力強く抱き締めて何度も謝罪を繰り返す。

 ここに幽谷がいたなら、もっと最高だったのに。
 幽谷が揃えば仲間が揃う。
 劉備の大切なものが揃う。
 これから、彼らを守るのだ。

 人間なぞ要らぬ。
 この世は猫族だけのものであれば良い。

 《恩知らず》に恩情をかける程、今の自分は優しく出来てはいないのだ。

 関羽の背中に回した腕に力を込め、口角を歪めた。
 けれども、それを邪魔する人物が一人。

 袁紹だ。


「失礼しますよ」

「あ…、お、お邪魔してます。怪我の手当をして下さったそうで」

「いえいえ、お気になさらず」


 その薄っぺらい、柔和な微笑に劉備は心の中で舌打ちした。表には出さず、顔を隠すように関羽の胸に顔を埋めていると、「それよりも大変なことが起こりました」と。


「どうかしたんですか?」

「ついに曹操が攻めて来たのです。五十万という軍勢を引き連れて」


 途端、関羽は劉備を離して立ち上がった。足が痛んだだろうに、目を剥き袁紹の言葉を反芻(はんすう)する。


「あなたは怪我人です。無理はなさらず。どうぞここで静養して下さい。その分猫族の皆さんが頑張ってくれてますから」

「え?」

「その代わり、あなたにはいざという時協力頂くかもしれません」


 関羽は首を傾げた。けれども、こくりと頷いて了承する。

 了承しなくて良い。
 関羽はずっと、自分の側にいれば良いのだ。

 この男が、劉備は頗(すこぶ)る気に食わなかった。
 穏やかで優しい青年を装いつつ、目はしっかりと猫族の軽蔑する。
 私利私欲の為に自分達を騙す下賤――――本当は今すぐにでも殺してやりたい。

 それをしないのは、彼が曹操と戦をしているからに他ならない。曹操を倒す以外に、劉備にとってこの男に存在価値は無かった。曹操に破れても、曹操を殺したとしても、後に殺すつもりでいた。

 端々に窺える彼の醜い腹の底――――泉沈の方がもっと純粋だ。

 関羽も、幽谷も、泉沈も。
 自分の側にいれば良い。
 自分の手の中にいれば、守ってあげられる。

 袁紹が天幕を出た後、関羽はぺたんと座り込んだ。
 曹操と戦うことになったその事実に、沈痛な面持ちで俯く。

 ……曹操に、そんな顔しないで。
 独占欲が首を擡(もた)げて凶悪な衝動が胸中の芽生える。
 それをひた隠しにして劉備は関羽に抱きついた。


「また、戦なの……?」

「ええ……。でも劉備はわたしとここでお留守番してましょうね」

「うん」



‡‡‡




 外を出歩いていた星河と合流し、泉沈は適当に道を歩く。
 と、袁術に遭遇した。

 彼は一瞬泉沈に怯んで身体を仰け反らせたが、すぐに調子を取り戻して見下した目で泉沈を見下ろしてきた。


「なぁに、負け犬のお兄さん」

「あぁ? 誰も負けてねぇよ」

「負けたじゃん。呂布に。為す術も無く国を滅ぼされてさぁ。本当、人間って脆弱だよね。さすがは《恩知らず》。守られて平穏を手に入れた後に英雄を歴史から消し去った下賤な種族」


 すうっと泉沈の周囲が冷えていく。
 金と黒の目はすっと細まり、蔑みの光を宿す。
 その中には殺意も感じられた。

 泉沈がこちらの兵士を無惨に殺していることを把握している袁術は、彼の目に悪寒を覚えた。

 泉沈は、彼が自分に怯えていて、それを必死に否定しようとしていることを知っていた。
 最初にここの兵士を殺した時、袁紹や袁術と共にその様を具(つぶさ)に見ていたのだ。あの時の袁紹もさすがにあの顔が凍り付いていてそれはそれはおかしかった。

 一歩近付けば、袁術は後退る。


「どうかしたー?」


 くすくすと笑って泉沈はわざとらしく首を傾げる。
 気まぐれに、本当に殺してしまおうかとも考えた。
 指をぼきぼきと鳴らせば、袁術の表情が強ばった。

 そこで剣を向けてきたら殺そうかと思った瞬間である。
 彼は泉沈に背を向けて一目散に逃げ出した。


――――興醒めだ。


「つまらない」

「クゥン……」


 星河が泉沈の脇を鼻で押してくる。
 その頭を撫でながら、泉沈は天を仰いだ。


「分かってるさ。今は機嫌が良いんだ、追いかけることはしない。ちゃんと、待てるよ」


 だってもうすぐ望みは叶う。
 抑えきれない笑声を漏らし、口角をつり上げた。


「あれが意識だけでも覚醒出来れば、身体が完全に馴染んでなくても劉備諸共金眼を殺せる。まあ、その前に《八つ当たり》するんだろうけれどね。それでも人間が減るくらいだろうから構わないよ」


 狂ったように、笑声は止まない。



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