袁紹はこみ上げる声がが隠せなかった。
 先程、関羽を休ませた天幕の外にて聞いた話が、おかしくておかしくてたまらない。
 なんて滑稽な話だろう。
 なんて美味しい話だろう!
 笑わずにはいられない。

 自分は大きな切り札を手に入れた。
 あとは、あの話を真実と裏付けられるに十分な材料があれば良いのだ。


「本当か、本当なのか!?」


 後ろで、袁術が騒ぎ立てる。
 それを五月蠅いと思わないのも、非常に機嫌が良いからだ。あの関羽から得た情報に比べたら、彼の無駄に大きな濁声など気にするべくもない。


「おい! あの曹操に十三支の血が流れてるなんて知ったらみんな驚くぞ!」

「驚くどころか、忠実なる家臣も兵もみな離れていくでしょう。しかし、これだけでは十三支の娘の造り話かもしれない……。曹操は本当にこの娘に執着してるのか?」


 問題はそこであった。
 真実とすればまったき甘味。
 けれども曹操の思惑で吐かれた嘘であるならただの苦汁だ。
 せめて自分の中でだけでも真否を定かにしなければこの切り札は振るえない。

 もっと、もっと何か確かな証明が欲しい。
 それさえ得られれば、この戦――――いいや、曹操に勝ったも同然だ。

 関羽からもっと話を聞き出してみるか……思案を巡らせたその直後だった。


「袁紹様! 袁紹様!」


 慌ただしく駆け寄ってきた兵士が目の前に片膝を付き拱手(きょうしゅ)した。酷く狼狽した風情でそのことを告げた。

 曹操軍が攻め寄せてきた、と。
 その数およそ五十万。

 今までの戦とは桁違いの圧倒的な兵力に愕然とした。
 されど袁紹は心の内で、再び哄笑を上げた。
 これだ……これがまったき証明だ!
 闇の内に秘めた筈の笑声は咽をせり上がり口から外へと放たれた。

 袁術がぎょっとして諫めるがそれだけではこの笑声は止まらない。止まれない。
 袁紹は額に手を当てて凶悪に口角をつり上げた。


「これは笑わずにいられない! だって、さっきの十三支の娘の話が真実だって裏付けてるようなものだ」


 敵陣の方へと向き直り、両手を広げて声高らかに姿を見えぬ男へと語りかけた。


「曹操、僕はお前の重大な秘密を知った。そして、お前の最大の弱み、あの娘は僕の手中だ!!」


 哄笑は止まらない。箍(たが)が外れたように自分でも止めようが無かった。

 袁術はそんな彼を見、ぐにゃりと顔を歪める。
 腕組みして何かを思案するように、或(ある)いは袁紹を軽蔑するかのように、険の滲んだ暗い輝きを秘めた目を彼に注いだ。

 そんな袁術に、兵士はまた別の情報をもたらす。
 それもまた、彼を驚かせるには十分であった。



‡‡‡




「あ、愛、愛してぇ!? 関羽と曹操がぁ?」


 関定が素っ頓狂な声を上げた。

 猫族の天幕の中、数人を集めて世平は関羽から伝え聞いたことを話した。勿論、曹操の血と、関羽の父親、それによる幽谷との軋轢については除外した。


「そうだ、しかし曹操は変わっちまったらしい」

「そんなの嘘だ。絶対嘘だ。そんな、関羽が人間を……曹操なんかを愛するなんて!」


 憤った蘇双の言葉に、世平は顔を歪める。それは一瞬のことで、即座に顔を引き締めて蘇双を宥めた。


「姉貴が、曹操のことを……? う、嘘だろ……?」


 茫然とした張飛は目を丸くし、世平を見つめる。関羽を好意的に見ていた彼だ、世平のもたらした情報が彼に与えた衝撃は大きかった。
 絶望の色を濃く金の瞳に映し出した彼の肩を数度叩き、趙雲が目を伏せる。


「だがこれで曹操が俺たちを殺そうとした理由がわかった」


 目を開く。


「理由はわかっても理解は出来ねぇよ。愛してるからって、その仲間たちを殺そうとするか? 普通」

「だから普通じゃないんだよ。独占欲で閉じ込めようなんて、気狂いとしか思えない。……そんな奴だ、一番関羽に近い幽谷にも何か被害が及んでいたかもしれない。足止めをした幽谷が今どんな状況であるか……」


 もしかしたら――――言おうとした言葉を趙雲が視線で止めた。

 趙雲達と接触した時に変わった犀華が未だそのままだとすれば、曹操に敵うとは思えない。
 だが、曹操と対峙している中で何らかの形で幽谷に戻れたかもしれないのだ。
 今彼女がどんな状況にあるのか分からないけれども、《もしかして》などと否定的な予想を持ちたくなどなかった。

 自分達がそう思ってしまったら、本当に、そうなってしまうような気がして――――。


「お、おっちゃん、それで姉貴はもう曹操のこと、何とも思ってねーんだよな? そんなことされて嫌いになったんだろ?」

「……わからねぇ。取り敢えず劉備様の件と身の危険を感じて逃げてきたが、気持ちにケリつけたかまでは……」


 張飛にしてみれば、話を逸らそうとした意図があるのだろう。
 だが、張飛の言葉に蘇双は眉宇を顰めた。


「……張飛。頭の中関羽ばかりで、幽谷が心配じゃない訳?」

「そりゃ、心配に決まってんだろ? けど、」

「おい、ちょっといいか、十三支ども」


 険悪になりかねた空気を裂くように、唐突に袁術が天幕に入ってくる。
 相も変わらず蔑視を向けて、曹操が攻めてきたと告げた。

 五十万の軍勢と聞かされて、一堂は慄然とする。


「それって、やっぱり姉貴取り戻すためなのか……?」

「わからん。しかし、俺たちは何が何でもあいつを守るんだ」


 そこで、蘇双が立ち上がる。


「ちょっと待って。それじゃあ幽谷は? 今幽谷は何処にいるの? 曹操が国に戻って軍勢を動き出したのなら、幽谷もこっちに向かう筈じゃないか」

「蘇双……落ち着けよ。まだ単純に到着していないだけかもしんねぇだろ? あいつが簡単に負ける筈がねぇって!」


 関定がわざとらしく、明るく言うが、蘇双の表情は曇ったままだ。

 曹操が国に戻って大軍を纏める余裕があるというのなら、幽谷は今どうなっている?
 彼女なら、ここまでさほど時間もかけずに辿り着ける筈だ。
 何か、遭ったのではないのか……?

 国境まで捜しかねない蘇双を止めようと趙雲が腰を上げると、袁術が淡々と、


「四凶なら、斥候がそれらしき死体を目撃した」

「え――――」

「何だと!?」


 その場の空気が凍り付いた。



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